|
|
A |
|
|
|
エッセイ
|
|
|
|
| 善田紫紺 | |
|
私がツーリングに行く目的はいろいろあるけれど、夏なら、いやどんな季節であっても一番心躍るのは温泉地を目指して走ることだ。風の抵抗をまともに受けて走るオートバイは、見た目よりも体力の消耗が激しい。春から夏にかけては、いわゆる「風になって走る」爽快感が楽しめるが、晩秋から冬場は、ちょっと走るだけでも体温を奪われてしまう。手先がかじかみ、クラッチワークもできないほど体が冷え切ってしまうのだ。
そんなけっこうハードな旅のご褒美が、温泉だ。朝、自宅を出発して何時間も走り続け、夕闇迫る中、道に迷いながらやっとのことで山の中の温泉宿にたどり着く。駐車場でバイクを降りるときは疲れもマックスに達していて、一瞬足元がよろけることもある。だが、宿に招き入れられて、荷物を解き、疲れきった体を温泉に沈めたときの安堵感といったら、とても言葉で言い尽くせるものではない。
今まで訪れた温泉のうちで、印象深いのは、南滋賀の山田牧場というところにある奥山田温泉だ。当時はまだ、長野自動車道も今のようには整備されていなかったから、中央道を松本インターで降りると、ひたすら県道を走り続けた。途中、小布施で有名な栗かのこを食べて充電し、また走った。夏の終わりだったので、道の両側にはちょっと赤みがかった青りんごがたわわになった並木道がつづき、なんだかそれを見ているだけで元気が出る思いだった。
いよいよ道が上り坂になり、山道特有のワィンディングロードがはじまると、ふもとに近い山田温泉から五色温泉や七味温泉などの温泉地が次々と現れては遠のいてゆく。最後の温泉宿を見てからいったいどれくらい走っただろう。視界が開けたと思ったら、いきなり目の前にアルプスの少女ハイジに出てくるような、光景がひろがった。なだらかな山の斜面には緑の絨毯が果てしなく続き、黒と白のぶちの牛たちが草を食んでいる姿が、点々と見える。羊や馬の姿もある。そして丘のふもとには、赤や黄色の屋根の愛らしい家々がポツリポツリと建っている。その中の一軒が、今日の私の宿だった。
宿は、いわゆるプチホテルだったが、緑の丘を背に建っている宿の最上階に、なんと露天の丸太風呂があった。予期していなかっただけに、私は驚いた。宿のご主人がレッドシダーのとりことなり、建物からお風呂までの建築材をすべて北米から輸入して作った自慢の一品だったのだ。直径3メートルはある巨大な丸太をそのままくりぬいたお風呂からは、先ほどのハイジの光景が一望のもとだった。というより360度さえぎるものが何もない絶景で、まるで牧場の中空に、おふろごと浮いているようなすばらしい錯覚を覚えたのだった。夜は降るような星空。星座のひとつひとつが手でつかめるのではないかと思うほどだった。
こんなふうに、温泉宿のお風呂での素敵な思い出は、数限りない。私は、家族旅行でも車でよく温泉地に行くが、やはり、オートバイで苦労してやっとのことでたどり着いたあとの温泉との出会いは、ひとしおのものがあると思っている。 |
|
| |
||
| A |