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ここのところ「愚連隊」についてずっと考えている。
そう、すごく興味を持っていて、それでこんな駄文を書いているのだけれども、さてその名を聞いてすぐにピンとくる人がどの位いるのかは少し自信がない。
現在身近な存在として愚連隊を意識する事はまずないだろうし、反社会的なものの呼称としては、ヤクザ、暴走族、不良、チンピラ、チーマーといったものの方がよりポピュラーだろう。
まあ近年、例えばナインティナインの主演で話題になった映画「岸和田少年愚連隊」や、そのパロディとも云えるバラエティ番組「めちゃイケ」中の「少年愚連隊シリーズ」などでその名称が転用されているので、名前だけは知っているという人も実は多いのかもしれない。
「愚連隊」の愚連は、"ぐれる"から来た当て字で、辞書によれば「繁華街をうろつき、暴行、不正行為をなす不良青少年の集団」となる。この記述だと、イメージとしては愚連隊は、それこそチンピラやチーマーのいち亜種、あるいは原型といった趣である。
が、しかしながらこの愚連隊、実はそんな矮小な理解には収まるような存在ではないのだ。
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私が初めて愚連隊の存在を意識したのは、例のグリコ・森永事件において"キツネ目の男"に擬せられた"モノホンの作家"、宮崎学のデビュー作「突破者」(南風社)に、彼が師事した「愚連隊の神様」、万年東一の、侠気溢れる描写を見てからの事だ。
そして宮崎の第ニ作「不逞者」(角川春樹事務所)。
歴史の陰にいた二人のヒーローを描いたこの作品での万年の活写で(もう一人は朝鮮人労働運動の指導者、金天海)、その魅力を再度確認した次第。
「いやあ、カッコええなあ、このおっさん」。
終戦直後から昭和30年代にかけて隆盛を誇った愚連隊は、まさに"時代の寵児"であり、日本の裏面史を語る上で欠くべかざる存在だった。
暴力を生業とし、昭和史の闇の部分で暗躍したアウトロー。ともすればそんな表層的な言葉で語られがちな愚連隊であるが、少なくとも万年に関しては、その実像は全く異なっている。
万年は1908年に生まれ、1985年に没している。この万年東一という男を一言で語るのは難しい。とにかく人間のスケールが破格なのである。
良家の出でありながら、生まれついての喧嘩好き、瞬く間に東京中の不良の頂点に立ち、「新宿のヤクザの親分で万年に脅されたことのない者は皆無」といわしめ、国士であり、勝新のヒット映画「兵隊ヤクザ」のモデルでもあった。
不良少年の心性を死ぬまで持ち続け、弱者を虐める事は絶無、たえず強者に逆らい、誰をも恐れない。そして誰よりモダンでダンディで、インテリでもあり、ものの筋目やけじめを重んじる折り目正しい人物であったという。
結果として裏社会の様々な相談事が万年の元に持ち込まれ、その解決を謀った。
が、決してカネには執着しなかった。
「新橋騒乱事件」や「東宝争議」、「横井英樹襲撃事件」や「反共抜刀隊構想」等に深く関わってはいたものの、そこに参画した理由は経済原理などではなく、自らが納得できる義がそこにあるか、の一点だけだった。
依頼を請けて遂行した仕事も、報酬を取りはぐれる事も多かったようだし、手にしたカネも大概は人にやってしまい、その生涯を清貧の中で終えてもいる。
児玉誉士夫、笹川良一といった政財界のフィクサーたちと古くからの知己でありながら、カネに汚い彼らを深く軽蔑し、組織に頼るヤクザを嫌い、利害を超えた友情だけを信じた。
その魅力に惹かれて集まった者は多く、実際、万年に私淑していた者の中からは、後に裏社会や興行界の大物になっている者も少なくないという。
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これら万年を中心とする愚連隊、アウトローへの関心は、気が付けば私だけでなく世間でも結構盛り上がっている。
愚連隊の基礎文献としては、「週刊実話」を擁する徳間書店から万年の自伝「関東喧嘩無頼」、万年の舎弟で元安藤組組長、安藤昇の名著「やくざと抗争」が、また、ライバル誌「実話時代」の桃園書房からは大下英治のペンになる「小説安藤組」が上下巻で刊行されているのだが、ここに来て利に聡い(笑)宝島社(の子会社の洋泉社)が洋泉社アウトローシリーズと銘打ち、安藤組大幹部の森田雅の自伝「闘いて候う」やMOOK「愚連隊伝説」「伝説のヤクザたち」等を出している。
これまた流行に敏感な幻冬舎も、アウトロー文庫を創設し「愚連隊の元祖 万年東一」や「ジュクの帝王 加納貢」(いずれも山平重樹著)、「伝説のヤクザ ボンノ」「最後の愚連隊 稲川会外伝」(正延哲士著)といった魅力溢れる実録物を刊行している。
ビデオでも、例えば的場浩二主演の、前述の加納貢の「ジュクの帝王」を原作とする「新宿愚連隊シリーズ」はその筋(どんなスジだ)では有名であるし、そして極め付けはマンガだ。
「週刊少年チャ ンピオン」連載の我が最愛のマンガ、板垣恵介の「バキ」(秋田書店刊。「グラップラー刃牙」-全42巻-を改題。12月に第6巻が刊行)、これは私が現在格闘マンガの最高峰と任じている作品なのだが、この作品の魅力のひとつに、登場人物の、そのキャラクター作りの妙が挙げられる。
明らかに実在のモデルがいる(たとえばアントニオ猪木や大山倍達など)と思われる格闘家と、作者の全く創作である架空の格闘家とが壮絶な死闘を繰り広げるこの作品中の、"最強の素手喧嘩(ステゴロ)師"、弱冠19歳の花山組組長、花山薫のモデルが、これがどう見ても安藤組大幹部、花形敬だったりするのだ。
ここはもうひとつ、現在店頭で殆ど見かけなくなった、件の花形敬を描いた本田靖春の名著「疵――花形敬とその時代」(文春文庫)の増刷を是非望みたいところ。
さらに去る10月には、安藤昇の盟友であり、万年が生前一番可愛がっていたと言われる、"ジュクの帝王"加納貢を招いてのトークライヴが、先の宮崎学の主宰で新宿ロフトプラスワンにて開催されてもいる。
いまやまさに世の中は愚連隊、てな感じ。少し大袈裟かな。
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隆盛を誇った愚連隊は、昭和40年代以降次第にその勢力を弱め、50年代には姿を消してしまう。その理由はと云えば、「組織化と経済化」。
戦後の混乱を経て、高度成長に助けられ次第に体裁を整えつつあった社会に於いては、彼ら反社会なアウトローの奔放で無手勝流の生き方は、いち早く系列化し、効率的な暴力装置として優れた統率力と武力、経済力をもそこに加えて、ひたすら強大になっていったヤクザ組織に対抗するには、余りにロマンティック過ぎたのだ。
飽くまでも「個人」をその存在基盤に置く愚連隊は、1対1のケンカならまだしも、組織力では抵抗すべくもない。古い博徒組織は、愚連隊を飲み込む事で、近代ヤクザとして変貌を遂げたのである。
先に触れた洋泉社のMOOK「愚連隊伝説」のコピーに倣えば、まさに「彼らは恐竜のように消えた!」のであり、そこがまた郷愁をさそう。
もとより暴力に対してはからきし弱く、意気地の欠片もない自分ではあるのだけれども、何だか憧れの気持ちばかりが募っている。おかしいな。どうしてなんだろう。
最後に、「突破者」から、私の好きな挿話を引いて終わろう。
「万年を慕っていた作家の安部譲二が、万年に『仁侠と普通の男の違いを知ってるかい』と訊かれた体験をある新聞で書いている。万年は『簡単なことだ。損を平気でできるのが仁侠で、できないのが普通の男だ。それができれば、八百屋の小父さんでも、タクシーの運転手さんでも仁侠で、できなければ、そんなもんは、たとえ組長・総長でも仁侠ではない』といったそうである」。
全くの「普通の男」である自分も、いつか仁侠になれたらいいな、と思う。ちょっと無理そうだけど。
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