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よみたい!ネット
エッセイ

 


第5回 鶴見区寺尾 日常のお散歩・非日常のお散歩


中北久美子  
 

 

 お散歩マニアにとって、お散歩は二通りある。
 ひとつは歩いてみたい街を選んで、そこまで車や電車で行って、新しい風景、知らない道を歩くお散歩。
 もうひとつは、自分の住んでいる場所を中心に、半径2キロほどの範囲、見知った風景、おなじみの道を歩くお散歩。ご近所の、日常の、つっかけ履きのコースだ。
 でも実は、このおなじみのお散歩の中に、知らない町を歩く以上に、非日常な風景が隠されていることだってある。

 

◆◇◆◇◆

 

 ・・・ご近所、日常、つっかけ履き・・・

 

 JR鶴見駅西口と国道1号線の間に広がるエリア。観光都市・横浜の、拍子抜けするくらい普通の街だ。駅前には商店街と西友と、銀行やマクドナルドがあって、山の手には住宅街。有名な場所といえば、駅から少し歩いたところにある、総本山総持寺くらい。
 狭い駅前通りを、バスが身をよじるようにして行き交い、坂を上る車がふかす排気ガスで、いつも空気がよどんでいる。それが、横浜での私の生活圏だ。
 スーパーに買い物に行ったり、子どもを習い事に連れて行ったり、スポーツジムに通ったり、友達に会ったり。そんなありきたりな私の日常が、日々繰り広げられている舞台。

 

 お散歩マニアは、そのありふれた町を、暇を見つけては歩き回っている。坂を上って下りて、小さな四つ辻に出合うたびに、でたらめに曲がりながら歩く。時には、知り尽くした景色の中に、いつもと違った何かがこっそり混ざっているのを見つけることもある。
 たとえば、空気の澄んだ夕方にだけ、ずっと遠くに東京タワーが見えるポイントがある。雲がたれ込めた湿度の高い日には、港の方から、ふいに船の汽笛のくぐもった音が響くこともある。
 長年つき合った恋人の意外な一面を見るような新鮮な驚き。それもまた、ご近所散策の楽しみなのだ。

 

 日常エリアのお散歩には、もうひとつ楽しみがある。それは、すぐ身近に「自分のための風景」を見つけることだ。
 他の人にとっては、何の変哲もない日常生活の場で、私にだけ見える「特別な風景」。そこへ行くと、ちょっとだけ日常を抜け出すことができるような……。
 そんな場所をひとつ、私は近所にこっそり持っている。

 

 東寺尾の丘の上にある高級住宅地。
 このエリアは、横浜西部指折りの豪邸街のひとつで、有名な俳優や、大きな会社の経営者の家が点在している。奥へ迷い込むほどに、豪華なたたずまいの家が現れ、塀は高くなり、犬は大型になり、外に停めてある外車の数は増える。
 この高級住宅地の端っこに、丘の上から下までうっそうと茂った雑木林があって、長い小道が一本通っている。こちら側から見ると、薄暗い木立を突っ切って、ひたすらまっすぐに下りていく、トンネルのような階段道だ。

 

 この薄暗い階段道の入り口が、私を「ある日」の「ある場所」に連れて行ってくれるのだ。

 

 ・・・森の階段道から・・・

 

 私が通っていた中学は、山を切り開いた住宅地のいちばん奥にあった。学校の近くには、まだところどころ雑木林が残っていて、その中でもいちばん大きい「森」が、通学路のすぐわきから、丘陵地帯にむかって伸びていた。
 森は小さな丘を覆うように広がっていた。通学路から分かれた細い階段道が、森の中へ続き、まっすぐに丘を越えて延びている。昼でも薄暗いその場所は、何年か前に悪い事件が起こったという噂もあって、中学生は一人で立ち入らないように言われていた。

 

 住宅地の中に突然現れる薄暗い木立。どこまでも続く階段道。木や枯れ葉の匂い。それらは、まるで上と下とでつながっているかのように、記憶の中の森と、お散歩コースの雑木林を結びつけている。
 横浜の住宅街で、雑木林の入り口から下を見下ろす私は、いつの間にか、中学時代の私になって、森の入り口を見上げているのだ。

 

 中学3年のその日、昼休みのことだ。私は、忘れ物を取りに家へ戻り、学校へ引き返す途中だった。午後のチャイムまであと5分。
 体育祭と文化祭の間、ちょうど今頃の季節だったと思う。受験の志望校も決まり、入試に向けて、本腰を入れなくてはならない時期だった。
 私は泣きたい気持ちで走っていた。思わぬ忘れ物のせいで、昼休みを丸々つぶしてしまった。5時限目の小テストの準備を、昼休み中にすませるつもりだったのに……。
 あと少しでチャイムが鳴る。急いで急いで。

 

 その時、どうしたことか、いつもなら気にもとめずに素通りする「森」に、ふと目が向いた。
 木立の間をちらっと動く何かの影が、目の端に映ったような気がしたのだ。いや、「何か」ではなくて、「誰か」だった。
 私は立ち止まった。それから、一歩、二歩と森の方へ近づいていった。

 

 何ぐずぐずしてるの、早く学校へ急がなくちゃ。英語のテストどうするの?
 私の中の理性が、さかんに警鐘を鳴らす。それを聞き流しながら、アスファルトの通学路をはずれて、森に続く土の道に足を進める。

 

 なぜか私には、一瞬目の端に映った影が、誰だかわかった。それは確かに、二年生の二学期から学校へ来なくなった、隣のクラスの男子生徒だった。
「……原田君」

 

 ・・・「遊ぼうよ」って言えた頃・・・

 

 小学生の頃、時々一緒に遊んだ、色の白い、優しい顔をした男の子。勉強はできるけど、気が小さくて線が細く、やんちゃな女の子たちの格好のオモチャだった。下校途中などには、いつもクラスの女の子グループから意地悪をされていた。
 その中に、私もいた。イヤだなあと思いながら、ランドセルを叩いたり、帽子を引っ張ったりする友達を、後ろの方で笑って見ていた。みんな彼をかまいたかったのだ。

 

 だけど、その日はみんな少しやりすぎた。最初は、気弱な笑みを浮かべながらやり過ごしていた原田君も、ついに耐えきれずに逃げ出す。その時、私には、涙を浮かべた彼の顔がまともに見えた。
 一瞬、躊躇した後、私は彼を追いかけた。友達の冷やかしを背中に聞きながら、彼の家の方へ走った。
 イジメというにはあまりに他愛もない、まだ1年生か2年生の頃のことだ。

 

 私の足音を聞いて、原田君は立ち止まって待ってくれた。もう泣いていなかった。私は汗を袖で拭いて、息をきらせながら、
「遊ぼうか」
と言う。彼は恥ずかしそうに
「うん」
とうなずいた。
 私たちは、ランドセルを背負ったまま、空き地にしゃがみこんで、虫を捕まえたり木の実を拾ったりして、夕方まで遊んだ。

 

 原田君は、昆虫と古代遺跡のナゾについて、とてもくわしかった。一緒に虫の羽をちぎりながら、私には理解できない専門用語をいっぱい使って、確かそんな話をしてくれたのだ。
 舌を噛みそうな名前の虫について、一生懸命説明するその様子は、いつもの弱っちい原田君ではなくて、テレビに出てくる「物知り博士」みたいだと思った。

 

 だけど、学年が上がるに従って、私たちは次第に話さなくなった。中学に入る頃には、もうほとんど意識にも上らない遠い存在になっていた。
 そのうちに、彼は学校に来なくなった。何があったのかは知らない。誰も彼のことは話題にもしない。私もわざわざ聞いたりしなかった。
 自分の勉強、自分の進路、自分の人間関係、自分のモヤモヤ。そんな自分のあれやこれやでいっぱいいっぱいだった当時の私だ。昔一緒に遊んだ、隣のクラスの男子のことを、いちいち気にしている余裕はなかった。

 

 その原田君が、突然姿を現して、そしてすぐに視界から消え去ったのだ。私は反射的に後を追った。
 あの日のように? ……多分。
 追いついて、どうするのか、そんなことさえ考えずに、校門に向かって歩いていた道を逸れた。暗い森の入り口が近づいてくる。

 

 いいから、早く自分の戻るべき場所に帰りなよ。今さら原田君を追って、何を話すつもり? 彼は、もうとっくに降りてしまった人なのに。
 正しい私が忠告する。
 それとも昔みたいに、一緒に虫を捕まえる?

 

 ・・・言えなかったひとこと・・・

 

 私は森の入り口に立って、木立の向こうをのぞき込む。
 土と木でできた階段道は、丘を少し登って、あとはずっと下っていく。私は階段を一段一段上り始めた。歩きながら考えていた。
 あの時、私はついに「ごめんね」を言うことができなかった。もしその一言を言っていたら、彼はこんなふうに学校をやめたりしなかったんじゃないか。そんな滅茶苦茶な考えが、胸をよぎる。

(……まさかあ……)

 丘のいちばん上まで来た。森は、外から見て想像するほど暗い場所ではなかった。木漏れ日がチラチラと揺れ、ほんの少しだけ色づいた桜の葉っぱを照らしていた。頭のずっと上で、高い木の梢がざわざわと音を立てていた。
 まっすぐ下に続いている階段のずっと先を、誰かが早足で下りていくのが見えた。それが自分の探している人かどうか、ここからではわからない。その人影は、じきに階段を下りきってどこかへ消えた。

 

 私は、去年の落ち葉が厚く積もった階段に、ペタッと腰を下ろした。
 それから、膝をかかえてうずくまった。体全体が、木の匂いと葉っぱのざわめきに包まれている。そのまま動きたくなかった。虫のように丸まって土の上に転がっていた。
 私はこれをしたくて、ここまで来たんだと思った。

 

「私、原田君に『ごめんね』とか言うつもりだったのかなあ」
と、つぶやいた。なぜだか笑いがこみ上げてきた。
 遠くで始業を告げるチャイムが聞こえてきた。おりこうさんな私の理性は、もう何も口出ししなかった。
 ありがと、原田君。ここでちょっと休んでいくね。
 その日、私は初めて午後の授業をさぼった。

 

 あれから月日は経って、私は横浜にいる。学校を出て、仕事を見つけ、結婚して、子どもを生んだ。そして、あの森にとてもよく似た丘のてっぺんから、雑木林の道を見下ろしている。
 ここへ来るたびに、記憶の底に沈んでいた原田君は、なんだか少しずつ立派になってよみがえってくる。それもご愛敬。
 だけど今頃どうしてるんだろう。森を突っ切って下りる階段道を選んだ、やさしい男の子は……などと考えてみる。

 

 ご近所の、日常の、つっかけ履きのお散歩コースに、15歳のある日の午後に、ほんのちょっとだけ戻れる場所がある。
 それは自分にとって、とても幸せなことのように思える。

 

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