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時計を見ると8時ちょうどだった。私は歯磨きもそこそこに、玄関に走る。服地のサンプルと資料、そしてノートパソコンの入った、大きな黒いバッグを担ぎ上げ、アパートの階段を駆け下り、私鉄の駅へと急いだ。10月の空の透明なブルーが私を責めているようだ。遠い日の運動会の朝と同じ空気の匂いを感じ、緊張する。
いつだって、遅刻ぎりぎりだ。本当はちゃんと朝食もとりたいのに、起きられない。
自分の寝起きの悪さを呪いながら、早足で5分も歩くと、エムのアパートが見えてきた。珍しく部屋の窓から半身乗り出していて、笑いながら私に声をかけた。
「おはよう。急げよ、乗り遅れるぞ。あ、今夜はクリームシチューがいいな」
私はむっとして、立ち止まってしまう。
「その前に、昨夜の八宝菜への賛辞は」
「おお。最高だった。ごっつぁん」
「・・・ま、いいでしょ。今朝はどうしたの?」
「眠れなくてさ、今まで起きてた」
「のん気でいいわね、学生は」
時間がないのだったと走り出した私の背中に、エムが声をかけた。
「エリ。今夜シャブリ、持ってくな」
地方の大学を出て、東京の服飾メーカーに就職して3年半がたつ。エムとは、この町に引っ越してすぐ、駅前の居酒屋で知り合った。お互いのアパートがあまりに近いので、帰り道、二人で吹き出してしまったのを覚えている。
つまり、かれこれ3年以上の付き合いになるのだ。いつからか、エムは毎日のように私の部屋にやって来ては夕食を一緒に食べるようになった。
「なあに、それ。通い猫みたい」
同僚のサツキは呆れた顔で言った。
「通い猫?」
「そうよ。飼い猫でもないのに、メシ時になるとやってくる猫」
「あ、ぴったりだ」
「で、二人はそれだけじゃないでしょ、まさか」
「・・・。エムってね、なんだかナマナマしさ、ないんだ。つかみどころもなくって」
「・・・。3年間?」
サツキは社員食堂のテーブルに肘をつき、タバコの煙を吐きながら笑った。
◆◆◆
私は入社してすぐ、京都支社の先輩に恋をした。かなり、本気で好きになったつもりだ。月に2,3度、東京に出張してくる彼を、遠くからみつめるだけだったのだが。
半年もの間、想い続けていた彼が、京都支社の私の同期と結婚するらしいと聞いたときの衝撃。今思い出しても胸が痛くなる。
あの夜、話を聞いてくれたエムは、一晩中、泣いている私のそばにいてくれた。そっと抱き寄せて。あたたかい掌で小鳥を眠らせるように。
入社2年目のとき、私は取引先の会社の社員に、食事に誘われた。
長身で柔らかな長い髪。洗練された物腰は、いかにも都会的だが、人なつこそうな笑顔を浮かべる人。少し気になっていたので、ついつい承諾してしまった。実は、彼には一緒に暮らしている女性がいるという噂もあったのだが、むしろその方が気が楽だと思った私である。
食事もお酒も美味しかったし、彼の話も面白く、私はいい気持ちのままさよならを告げた。が、
「部屋まで送って・・・って言わないの?」
と彼が聞いたのには驚いた。
「あなただって、私があなたの部屋まで行ったら困るでしょ」
少ししゃくにさわった私は、そう返事をしていた。
一瞬、きょとんとしていたが、彼はすぐにニッコリ笑ったのだ。
「気が合いそうだね。また、飲もうよ」
数日後、会社に電話がかかってきた。彼の同棲相手だった。別れてくれないなら私は死にます、と彼女は私に言ったのだった。とんでもない展開。
その夜、エムは腹を抱えて笑い続けた。
「おっとりしてるなぁ、おまえ」
「あんたに言われたかないわよ」
「でもまあ、人の命ひとつ救えたんだから、たいしたもんだよ」
「おだまり」
この頃から、私は自分に男運というものがないのかもしれないと、思い始めていた。恋までいかないうちに、全て壊れてしまうのか。
エムが私の頭を撫でていた。毛羽立ちかけた気持ちが少し、やわらいだ。
◆◆◆
「へぇぇ。そんな話までするんだ」
終業のベルが鳴り、デスクの上を片付けながら、サツキは言った。今日はチーフが出張。早く帰れそうだ。クリームシチューの材料はどのストアで買おうかな。ちょっとのんびりムードの企画室で、さっきからサツキがまたエムのことを聞きたがっている。
「そんな話って。変かなぁ」
「だって、半同棲の男に、別の男とのテンマツ話して聞かせるなんて」
「エムとはそんな関係じゃないよ」
「でもさ、ちゃんとした彼氏ができたら、エムのこと、どう説明するのよ」
「・・・」
「エムはエリにいつかふられちゃうのかぁ。そんなに支えてもらっているのに、薄情な女だね」
「サツキったら」
その時、ドアが開いて、若い男が入って来た。営業の田口君だ。
田口君は新入社員だが、ラグビーで鍛えた力強い体格と、それに似合わぬ童顔、明るく爽やかな笑顔で、入社後たちまち女子社員の間で有名になってしまった人物だった。
その彼が、チーフもいない今日、企画室にいったい何をしに来たのだろう。と思っていたら、こちらにやって来て私に言った。
「エリさん、お茶でも飲みながら、少しお話したいんですが」
意外な申し出にびっくりしている私に、サツキがウインクを投げながら帰って行く。
「僕、まだ仕事があるんですけど、ちょっと休憩です。付き合ってください」
「す、すこしなら」
我ながら間抜けな返事をしてしまった。
クリームシチューが食べたいと言っていたエムの声を、ふと思い出した。
その店で、田口君の顔を、私はあっけにとられて見ていた。
「そんなわけで、入社したときから、恋人にするならあなただと、決めていました」
「入社したときからって・・・まだ半年もたっていないじゃない」
「時間のことを言ってるんじゃないんです」
バサバサと長い睫毛が上下するのに気を取られていると、田口君は時計を見て
「まだ時間がある。メシ、行きましょう」
とレシートを手に立ち上がった。
「ちょっと待って、あたし・・・」
もうレジに歩き出している彼を追いかけながら、再びエムの顔が頭をよぎった。
田口君は謙虚なくせに、妙に強引なところがあるようだ。けれど、悪い感じはしない。それに、敬語で丁寧に話しかけてくれるのも新鮮だった。
・・・エムに話したら、何て言うかな。今度は年下かぁって、からかうんだろうな。まあ、夕飯のおかずぐらいに思う程度だろうけど。
イタリアンレストランで食後のエスプレッソを飲みながら、私はぼんやり考えていた。
それにしても、どうしてもと、アパートまで営業車で送られたのには、正直まいった。とにかく、部屋まではついてこられなかったので、一安心したのだった。私の部屋には灯りがついていた。
・・・クリームシチュー、今夜はもう、作れないよ。
幸いエムは、カップ麺の類でもありがたがって食べる人種だし、私はそのテのストックは欠かしたことはないから、飢えたまま帰すことにはならないだろう。
「ただいま」
部屋に入ると、エムは私のベッドで眠っていた。そして、テーブルの上には白ワインがあった。何故だか少しだけ、泣けてきてしまった。
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