|
翌朝、社内ではすでに噂になっているようだった。私と田口君のことである。
好奇、羨望、嫉妬・・・あらゆる視線が、この企画室にも充満している。居心地が悪いこと、この上ない。
「どうだった?昨夜は」
サツキがこともなげに聞く声に、私はむしろほっとした。
「どうもこうもないよ、別に」
「トシのことはさ、こだわらないであげなよね」
「なんでもないったら」
あははと笑いながら、サツキはついでのように言ったのだ。
「あたし、来月、結婚退職」
「は?」
「驚いた?」
「だって、そんな話、初めて聞いたよ。婚約者いたの?」
「まあね。実は出会い系サイトで知り合った人でね。ちょっと恥ずかしいんだけどさ」
「ネット恋愛・・・」
企画室でたった一人の同期であるサツキに辞められるのは、とても困る、と思った。
「エリには仕事、続けてほしいな。とろそうだけど、いいセンスしてるもの、あなた。田口君ならわかってくれそうじゃない」
「あたしたち、まだ・・・」
サツキはくすっと笑った。
「まだ、エムのこともあるしね」
「・・・」
その夜、私はどういうわけか、エムに昨夜の話ができなかった。残業ということにしてしまったのだ。ただ、サツキの結婚退職の話を、ぽつりぽつりとした。エムは、クリームシチューを機嫌良く口に運びながら、にこにこと相槌を打っていた。
◆◆◆
次の週の金曜の夜、私は田口君に誘われるまま、横浜までドライブに行った。その晩、アパートには帰らなかった。そしてエムは、土曜日から姿を見せなくなった。
「ちょっとは真面目に勉強する気になったかな」
私は大学院で勉強を続けるエムの世界のことを、少し想像してみた。
いや、それが理由じゃない。それは、私の部屋に来なくなる理由にはならない。
「サツキの結婚話に、プレッシャーを感じたのかな」
一人の部屋で、ちいさくつぶやいてみた。プレッシャー?エムが、私との結婚を考えたことなんてあるのだろうか。
エムの部屋に電話をかけた。何度もかけてみたが、出なかった。エムは携帯電話を持っていない。
月曜の朝、いつもより少し早く部屋を出て、エムのアパートに近づいた私は、とても混乱した。アパートはなかった。空地だったのだ。
「うそ・・・」
あたりを見渡したが、確かにこの場所のはずだ。
「あの、すみません」
すぐ近くで通りを掃き清めている年配の女性に、私は声をかけた。声は震えてしまった。
「ここにあったアパート、いつ壊されたんですか?」
彼女は怪訝な面持ちで答えたのだ。
「ここにアパートなんて、なかったですよ」
◆◆◆
それから3ヶ月後、私はまた、失恋した。
「他に好きな人ができたんです。ごめんなさい」
社員食堂の片隅で、田口君はとても誠実に、頭を下げて謝ったのだった。
その日の午後は、ぼんやりとして仕事にならず、チーフに何度も注意された。帰り支度をしているとき、後輩が近づいてきた。
「先輩、田口君と付き合ってるって本当ですか?」
「え。どうしてそんなこと聞くの」
「余計なことかもしれないですけど、私、学生時代に田口君のグループとコンパしたことあるんです。彼、ああ見えて、かなり遊んでますよ。気をつけてください」
私はくるりと背を向けて、そんなこと今頃言うなよ!と心で悪態をつきながら、サツキのデスクを見た。一緒に怒ってくれたはずのサツキはもういない。
・・・寒いな。今夜はエムが好きだったクリームシチューでも作ろう。それから、バゲットとチーズと、イチゴと・・・ワイン!
真冬の夜空は黒く深く凍っていて、こんな都会でもいくつもの星が清らかに輝いている。私は、輸入品を多く置いているストアに入った。買い物をしながら、田口君ではなく、エムのことばかり考えている自分が可笑しかった。
やせっぽっちでのっぽのエム。いつも欠伸をしていたエム。中古のオートバイのうしろに乗っけてくれて、眠れない夜を一緒に走ったエム。兄弟よりも身近な肉親に感じていた。戯れのキスは、赤ちゃんとしているようだった。
エムには好きな人がいたのだろうか。いつだったか、女性は苦手だと言っていたっけ。
初めて会った頃は、もう少しドキドキしていたよね。あの先輩への「恋心」を打ち明けたときは、確か、ちょっとヤキモチやいて欲しかったはず。いつの間にか、本当に、エムを男として見られなくなってしまった。
エムはどうだったんだろう。飄々として、何を考えていたんだろう。
そして私は、エムのことを何も知らないことに愕然とした。エムは、本当に存在していたのか・・・?
◆◆◆
「いただきまーす」
シャブリに口をつけた時だった。ドアを小さく叩く音がする。どきっとした。
「エム?」
あれから、何度も電話をしたが、3日前、知らない声がこう言った。
「ここは××公園の公衆電話ですよ」
あのときの、うそ寒い気分を思い出し、ふりきる気持ちで玄関に立つ。
ドアの外には、大きな白い猫がいた。
「・・・おなか、すいてるの?」
「ニャーオ」
それから猫を相手の、楽しい食事となった。
「シャブリも飲む?」
と、声をかけたとき、白猫の青い瞳が、悪戯っぽくキラリと光った。
「あたし、知ってたんだ」
「ニャーオ」
「こんな日がいつかくるって、本当は知っていた気がする」
「ニャーオ」
「それでね。あんた、明日から毎晩来る。一緒にごはん、食べるためにね。そうしていつか、あたしがホンモノの恋人見つけたら、姿を消しちゃうのね」
私はひとりで続けた。
「恋なんて、何度失敗したっていいんだよね。あたしはまだ、本当に絶望するほどには人を愛したことがない。まだまだダメだわ。でもね、昔より少しはいい女になった気がするよ」
皿を舐め終え、猫は玄関へとゆっくり歩く。私はドアをあけてやった。そして、アパートの外階段を降りていく白猫の後ろ姿にそっと声をかけた。
「おやすみ、エム・・・」
(前ページへ戻る)
|