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「片桐君!」
アシスタントとしてバイトさせてもらっているデザイン事務所を、私はサボった。もうそろそろ、クビになるかもしれない。でも、今は「ルナ」だけが、私の行き先だ。
「木ノ内さん、どうしたの?開店早々」
片桐君はびっくりしている。こんな時間に、私が来ることなどなかったからか、あるいは私のただならぬ剣幕のせいか。もちろん、後者だろう。
「木ノ内さんって呼ぶのやめて。風葉って言ってよ」
片桐君は、黙って私のそばに来た。
背の高い私は、彼が近づくとつい、猫背になってしまう。もう少し、小さかったら、可愛い女でいられたかもしれないのに。そんなはずはないのだが、彼の困ったような瞳を見るたびに、自分を少しでも愛されるに値する女に見せたいと、私は祈るような小さな気持ちになり、首をすくめてしまうのだった。
「カザハ・・・ちゃん」
「マモル・・・くん」
ぎこちなく呼び合い、私はテーブルに頬杖をつき、ふてくされてしまう。
「コーヒーでいいの?」
私は頷き、少し、落ち着いて考えてみる。
片桐君には、あたしがお似合いだ。12も年上で、エリートの優奈なんかより。喫茶店の雇われ店長には、フリーターのあたしが似合うのよ。優奈なんか、不倫でもなんでもよそでやってればいいのよ。結婚もしないで。優奈なんか・・・
私は、自分に涌き出た意地悪な思いに傷つき、優奈を侮辱した自分自身に腹を立て、混乱し、ついに泣き出してしまった。私は優奈がこんなに好き。
「優奈さんが不倫してればいいって、思った?」
片桐君がコーヒーを運んできて、そう言った。
「わかったの?なんで?」
ふふっと笑って、片桐君はウィンクした。
・・・そうなの?わかるの?
けれど、私はそれはとても当たり前のような気がした。だって、片桐君なのだから。彼ならそれは、自然なのだ。そう思い、納得したら、とても眠くなってしまった。優奈の部屋で、一睡もしていなかったから・・・
◆◆◆
「カザハちゃん」
片桐君の声で目がさめた。ここは、どこだろう。
どこかの、私鉄沿線。線路を見下ろす小さな公園のベンチに、私は座っていた。
「これ、食べなよ」
手渡されたのは、小さな紙袋に入ったあたたかいコロッケ。香ばしい。ソースがかけてある。
「片桐君、ここは?」
それには答えず、彼は夕景の町を眺め、嬉しそうにコロッケを頬張る。
暖かい風が吹いた。私はなんともいえない、懐かしい気持ちになり、片桐君をただただ、みつめていた。
「もうすぐ、通るよ。ほら・・・」
「え?」
公園の、線路とは反対側の道を、若い男女がコロッケを手に歩いてくる。とても楽しそうに。けれど、誰?
次の瞬間、私はあまりの衝撃に凍りついてしまった。
「ユウちゃん!それに・・・片桐君?」
それは、どう見ても学生だったが、確かに優奈だった。しかし、片桐君だと思ったのは、全く違う男の子だった。
「20年前の優奈さんと、恋人だよ」
混乱する頭で、私は呪文のようにつぶやいていた。
・・・片桐君なら、不思議じゃない。片桐君なら、これが自然・・・
「早く一緒に住みたいね」
「どんな部屋がいい?」
「白い部屋。白い花を飾って。シャガールの絵をかけるの」
二人は頬を輝かせて話しながら、私達の前を歩いていった。
そうなのだ。
優奈は、私の愛する姉は、最初に片桐君を見たとき、昔の恋人にそっくりだと思ったのだ。そして、姉がずっと独身を通しているのは、今でもその彼が好きだからなのだ。気持ちのすれ違いで別れた後、他の女性と結婚してしまった彼を、今でも愛しているのだ。父の再婚で結婚に幻滅したわけじゃなく、母や私を愛せなかったわけでもなく、結婚しないのはその彼を愛し続けていたからなのだ。テレビもパソコンもない白い部屋に住んでいるのは、20年前の夢だったからだ。
「ムーンライト・パフェを出したとき、全て見えたんだよ。美しい景色だったよ」
片桐君は、そう言って、少しだけ泣いた。
20年前の町の公園。柳の初々しい新芽が甘い風にそよぐ下で、大学生の恋人同士の幸せそうな後姿を見送った。優奈はまだ、この日を生きている。
◆◆◆
「ユウちゃん、大学時代の彼は、今どうしてるの?」
片桐君の不思議なパワーで、まばたきひとつして「ルナ」に帰って来た私は、携帯電話でいきなり優奈を直撃した。こういう性格なのだ。こんな妹を持ったことを不幸だと思ってあきらめて欲しい。
「カザハちゃん、マモル君から聞いたのね」
少し黙ってから、優奈は言った。
「彼の奥さんは5年前、亡くなったわ。私達は去年からお付き合いしているけど、結婚はしないわ」
なるほど。優奈らしい。
「あのパフェ、美味しかったな。昔、彼も喫茶店でアルバイトをしてたのよ。特別にって作ってくれたパフェにそっくりだったの。カザハちゃんがちょっと、憎らしかったわ」
このセリフは優奈らしくない。でも、私は嬉しかった。
「ルナ」を出ると、雨だった。そろそろ、梅雨なのかもしれない。片桐君が傘を貸してくれた。まだ、やっぱりクビになるのは困るので、バイト先に行こうと思う。遅刻だって首は危ないんだけどね。
「じゃ」と振り返り、ふと思う。
・・・ところで、このオトコ、どうしよう・・・
こんな"チカラ"を持った彼氏を、私は今後、扱えるのだろうか。
片桐君が可笑しそうに笑った。全てお見通しなのだ。
もちろん、私はつぶやいた。
・・・片桐君なら、不思議じゃない。片桐君なら、これが自然・・・
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