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「このスープ、すごく美味しい」
「栗のポタージュ・リエ、カプチーノ仕立てだって。シナモンの香りがお洒落だね。あ、そうだ、西山はどうしているかな。あいつ、カプチーノ好きだったな」
「あなたが亡くなって、会社もだめになっちゃったみたいよ。西山さんにはお葬式の後、一度だけ会ったけど、今はどうしているか知らない」
「そう。明にも悪いことをしたな。でも、あの頃は楽しかった」
「本当に信じられないくらい楽しかったわ」
魚料理は鯛のムニエル、サフランソースだった。絵のようにきれい。
「あの恋には悩みなんて全然なかった。そんなの私、初めてだったの。東郷さんは物語の王子様みたいだったわ」
「ははは。リコは可愛いお姫様だといいたいの?いやほんと、お互い忙しかったよね。なかなか先のことを話し合う時間もなかった。まだこれから、お互いを知って、将来を考えればいいと思っていたんだ。ゆっくりと。でも、結果的には何も約束しなくて良かったんだね」
「それは違うわ。みんなにもそう言われたし、多分、だからこそ3年間そばで支えてくれた直ちゃんと結婚もできたんだけど・・・」
「リコ?」
「私がどんなにあっけにとられたか、わかる?東郷さん」
口直しのソルべはレモンの味だった。
「悩みのない楽しい恋の、たったひとつの痛みが、決定的な相手の『死』だったんだよ。現実感のない恋の、たったひとつの現実が、もう会えないってことなの。この恋愛と呼んでいいのかさえわからないものを、どう考えればいいのか。エピローグもなく終わっちゃって、宙ぶらりんな気持ちで、でも、本当にあなたが好きで、それすらちゃんと伝えてなくて・・・」
涙が頬を伝う。困ったな。食器を下げに近づきかけたギャルソンが、遠慮して向こうへ行ってくれたようだ。急いでハンカチを当てた。
「ごめんね、リコ。あの日、土曜日だったのに、急に静岡まで行かなきゃならなくなって、大急ぎで帰る途中だった。リコを待たせているなあって、ついアクセルを踏み込んじゃった。そうしたら・・・」
思わず耳をふさぎたくなったが、私は耐えた。そして、自分も伝えなければと思った。
「あの日、私も取材が入っちゃったの。それで、駅からお店に電話をかけようと思ったんだけど、公衆電話がなかなか見つからなくって。私も待たせて悪いなって、すごく焦ってた。やっと見つけたら、それがダイヤル式で、手がかじかんじゃってうまく回せないのよ。東郷さん、これ、知ってる?」
私はバッグから携帯電話を出して、テーブルに置いた。
「なに?電話なの?」
幻の東郷俊平は、目を輝かせてそれを見た。少し低めの甘い声。私の大好きだった、あの声だ。
メインディッシュが運ばれてきた。鹿肉のフォアグラ詰パイ包み焼き、黒トリュフのソース。
「あの頃、携帯電話があれば、あんなにお互い焦ることもなかったんだろうね。このお店のウェイティングバーで、あなたがまだ来ていないことを知って、私、自分の部屋に電話したの。留守電が入っているだろうって。そうしたら、入っていたのは西山さんの声だった。あなたが事故に遭ったって・・・」
辛かった。病院に駆けつけて、医者が即死状態だったと告げるのを聞いたとき、唖然として涙も出なかった自分。あの一瞬を思い出すたび、胸が張り裂けそうになる。そして、それは多分、これからもずっとそうだろう。それは仕方がないのだ。
気を取り直して、微笑んでみる。ドラマティックなトリュフソースの味が、ボルドーの赤ワインによく似合う。
「毎年ね。マライア・キャリーのクリスマスソングが聞こえてくるたびに、東郷さんに電話する夢を見ちゃうのよ」
「マライア・キャリーのあの歌?『All I Want For Christmas Is You 』。今でもよくかかるの?」
「うん。もうすっかり、このシーズンに欠かせない曲になっているよ。あの頃の私たちみたいに、元気が良くてワクワクするような歌だよね。でも、東郷さん、『マライアって風につけられた名前なんだよ』って、ロマンチックなこと言ってたでしょ」
「ああ。ブロードウェイのミュージカルで歌われていたナンバーから、マライアのおかあさんがとって、娘の名前に付けたって、あれね。『THEY
CALL THE WIND MARIAHA』。あの話、解説書で湯川れい子が書いていたんだ、実は」
「うーん。あとでわかったよ」
二人は同時に笑ってしまった。
「生きていたら・・・」
私は口に出してから後悔した。携帯電話があったなら、というのと同じこと。イマサライッテモハジマラナイ。
「別れていたんじゃないかな」
彼の意外な言葉に驚いた。彼は微笑んでいた。限りなく優しい顔だった。
「俺、わがままだからさ。最初の3ヶ月くらいまでだよ、優しいの、きっと」
「あ。あのね、私もわがままであまったれなの。仕事に生きるなんて言ってて、美緒が生まれたらやめちゃった」
「美緒ちゃんっていうんだ。可愛い名前だね。リコ、仕事頑張ってたのに、もうしないの?」
「美緒がもう少し大きくなったら、多分また働くわ。仕事してない私はどう?所帯じみた感じでしょう」
「リコは変わらないさ。あの頃も今も、いい女だ」
「・・・ありがとう」
デザートが運ばれてきた。色とりどりの小さなケーキやアイスクリームに感嘆しているとき、
「愛していたよ」
と、聞こえた気がした。
もう、食事も終わりだ。東郷俊平の幻とも、そろそろ別れる時間が来た。そのとき、お店の人が近づきこう言ってくれた。
「プティフールとブランデーをお持ちしましょうか」
私は思わずにっこりしてしまった。
トリュフチョコレートは、もうおなかいっぱいであるにも関わらず、口に入れると嬉しい。味覚を通して心に染みてくるようなお菓子だと思う。
とても満足して楽しんだディナーコースだけれど、どこか満たされていないような寂しさがあった。それは、あるいは終局からの逃避かもしれない。そんな切なさを感じている私を、ほろ苦く、控えめな甘さのチョコレートが、まるで元気付けてくれるようだった。心に染みる。これで、終われる。これが、エピローグ。ブランデーの力を借りて、そっとつぶやいてみた。
「私も愛していたわ」
丁寧に、でも暖かく、お店の外まで見送って頭を下げてくれた人たちに
「ごちそうさまでした。とても美味しかったです」
と挨拶をし、石段をゆっくり降りて、通りに出た。すると、そこに見なれた車が止めてあり、夫が降りてきた。
「迎えに来てくれたの?」
直樹は笑いながら助手席のドアをあけてくれた。そして、
「前の男とちゃんと別れてきた?」
と、冗談ぽく言った。私は、私のサンタクロースの首にしがみついた。
◆◆◆
その晩、また夢を見た。電話をかける夢だ。そして、ダイヤル式の公衆電話。一瞬、緊張するが、落ち着いて受話器を持ち、硬貨を入れる。しっかりとダイヤルを回す。
「もしもし、東郷さん。私は今、幸せです。あなたと会えて良かった。だからもう、あなたを忘れますね。ありがとう。さようなら・・・そして、メリー・クリスマス」
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