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よみたい!ネット
短編小説

 

水平線とアップルパイ
 -2-


かなりあ月子  
 

 

 海岸線を歩く。少し空腹を感じている。それにしても、なんていいお天気なんだろう、今日は。どうしてこんなに美しい日に、わたしは塞ぎこんでいるの?
 まぶしい光に耐えかねて、わたしはバッグからサングラスを出した。立ち止まり、しばらく波の音を聞いてから、目的の場所へと向かった。もちろん、昔住んだ家である。

 

 がしかし、そこにはあの家はなかった。
 こんなに、何もかも昔のままに感じられるのに、幼い日、両親と妹と暮らしたあの家だけがないなんて。
 シーサイドコーポ、という名らしい二階建てのアパートになってしまっている。わたしはしばらく立ちつくしていたが、気を取り直して野花に縁取られた横道に入ってみた。
 「あった」
 思わず声が出てしまった。あの古い白い洋館が、木立ちになかば埋もれるように建っていた。人の住んでいる気配はないが、アーチ型の錆びついた門にからみ這い登る葡萄の葉と赤い蔓薔薇が、ここを廃墟に見せないように守っているかのようだった。わたしはサングラスをはずした。

 

 

 遠い日、秘密の小道の木漏れ日の下で出会った男の子は、マモルくんといった。この家に住む片桐衛くん。彼とわたしたち姉妹は、急速に仲良くなったのだった。

 

 「マモルくん、おとうさんはいないの?」
 「うん。おかあさんだけ」
 「どうして?」
 「わからない」

 

 彼はわたしと同い年だった。同じ小学校に入学して、毎日手をつないで登校した。わたしは、学校では恥ずかしくて誰ともうまく話ができなかったが、マモルくんにだけは、なんでも言えた。ただ、マモルくんは誰にでも優しくて、誰からも好かれていたので、学校にいる間はなかなか近づけないのが残念だった。それでも何故か、マモルくんは下校後、誰かの家に行くこともなかったし、誰も家に呼ばなかった。わたし以外は。

 

 「ユリちゃん。今日うちに来る?」
 帰り道、初めてマモルくんがそう言ってくれたとき、本当に嬉しかった。そう、多分五月。今ぐらいの季節だっただろう。
 ランドセルを置くなり、隣へ向かおうとしたが、昼寝中だったエリを起こさないように、普段より気を遣ったのだった。
 「ユリ、お隣へ行くのなら、これを持って行って」
行き先を母に告げて玄関に急ぐと、背中に声をかけられた。振り返ると小さな包みを手渡された。いいにおい。アップルパイだ。そして母は微笑みながら、わたしの髪を撫でつけてくれた。
 ほんのり温かいその包みを胸に、わたしはお隣の門をくぐった。白いペンキを塗った、鉄製のアーチ型の門。白い小さな薔薇の花々が、その下半分を飾っていた。

 

 「いらっしゃい」
 わたしを出迎えてくれたその人は、木綿の白っぽいワンピースを着ていた。綺麗というより可愛らしい感じで、わたしは少しどぎまぎしながら小さくこんにちはと言った。
 「これ、おかあさんが……」
 アップルパイを手渡すと、マモルくんのおかあさんはニコリと笑った。
 「ま。どうもありがとう」

 

 マモルくんの部屋は二階にあって、あまり子ども部屋らしくない家具が置かれていた。ずっしりと重そうな大きな机。大人が二人寝ることもできそうなベッドには、カーテンと同じ柄の渋い色のカバーが掛かっていた。二人掛けのソファにも、同じ柄のクッションがあり、そこに投げ出された真新しい黒いランドセルが、場違いな感じだった。
 「前に住んでいた人がきれいに使っていたから、このまま使いなさいって、おとうさんが」
 入り口でぼんやりしているわたしに、マモルくんが言った。
 「おとうさん、いるんじゃない」
 「でも、会ったこと、ないんだ」
 わたしは、聞いてはいけないことなのかもしれないと、なんとなく思った。

 

 その後、その部屋でわたしたちはいろいろなことを話した。もちろん、まだ小学一年生なので、他愛のないことばかりだったが。ただ、その日の夕方になるころには、わたしとマモルくんの間に、深い信頼と友情が生まれていたことは確かだ。
 マモルくんという子は、他の人と比べて、一足早くわたしの気持ちを読み取ってくれるような気がした。すぐにわかってくれる、言わなくてもわかってくれると感じたことさえあった。わたしは丸ごと受け入れてもらったような、安心感に包まれていた。

 

 マモルくんのおかあさんが、おやつを持って上がって来た。母が持たせたアップルパイが皿に乗っていた。
 「ユリちゃんのおかあさま、お菓子作りが上手ね」
 ソファの前の黒っぽいガラスのテーブルに皿を並べながら、彼女は微笑んだ。紅茶の色が、とても綺麗だと思った。
 「あのね。ごはんも美味しいのよ。今度マモルくんと、うちに来て」
 わたしは心からそう思って言ったのだが、彼女は一瞬びっくりしたような顔をして、すぐにニッコリとありがとうを言い、立ち上がって部屋の窓をあけた。
 そこには、午後の光にきらめく海が広がっていた。毎日自分の家の二階から眺める海だったが、何度見てもドキンとする。わたしは彼女のそばに行って、水平線をみつめた。マモルくんも並んだ。三人は黙って海を見ていた。

 

 

 わたしは、マモルくんのおとうさんのことが気になってしかたなくなった。
 「東京の政治家の二号さんだって噂を聞いたわ」
 「まさか。この間は資産家の娘が隠し子を産んだなんて言ってたし。噂話なんて嘘に決まっているさ。くだらない詮索はやめた方がいい」
 夜、居間で両親が話しているのを、廊下で聞いてしまったことがあった。二号さんって何だろう? 隠し子って? でも、襖をあけて、両親に尋ねることはできなかった。ただ、あの母子が近所から孤立していることは、幼いわたしも気がついていた。

 

 エリもマモルくんが大好きで、三人で遊ぶことも多かった。海岸やあの秘密の小道にもよく行ったが、特に、マモルくんの家の白いアーチ型の門の下は、薔薇のいいにおいがしてみんなのお気に入りだった。
 「モッコウバラっていうんだよ。とげがなくて、虫がつきにくいんだって。でも、おかあさんは本当は赤い薔薇を植えたいんだ。白い薔薇は寂しいんだって」
 わたしたちのママゴト遊びに付き合ってくれながら、マモルくんは言った。そして、
 「じゃ、どうして赤い薔薇を植えないのかって。僕もそう思うよ」
 まるで、わたしの心の声を聞いたように、でもごく自然に、彼は答えた。

 

 梅雨時は、マモルくんの家に行くことが多かった。エリもついて来ることがあったが、わたしたちは互いに本を読んで過ごすことが多かったし、マモルくんの部屋にはエリの喜びそうなものは皆無だったから、彼女はいつもすぐに家に帰ってしまった。そう、わたしたちはたくさんの本を読んだ。マモルくんの部屋の書棚に並んでいた児童文学全集は、一年生にはちょっと難しかったが、挿絵を眺めながら空想の世界に飛んで行き、そこで遊んだ。
 ふと気づくと、マモルくんがこちらを見て笑っている。とても楽しそう。別々の本を読みながら、何故かマモルくんと物語を共有しているような心地がして、わたしは胸が温かかった。
 外では雨音が楽しげに唄っているようだった。

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