|
夏になって、わたしは七歳になった。家でささやかな誕生日会をしようと母が提案してくれて、学校の、数少ない友達を呼んでみた。もちろん、マモルくんにも声をかけたのだが、彼はすぐには頷かなかった。おかあさんに聞いてみると言う。
家に帰ってこのことを母に告げると、それならばと母が隣に出向き、彼のおかあさんに声をかけた。
「よかったら小夜子さんもいらっしゃいな」
少女のように頬を染めて、マモルくんのおかあさん、小夜子さんは首を振った。
「衛だけ、お願いします」
そして、マモルくんはこの日初めて、我が家に上がったのだった。
マモルくんは、クラスでも人気者だったから、他の友達も大喜びで、なかなか楽しいパーティーだった。エリも大好物の葡萄をたくさん食べて、いつになく華やかな居間でご機嫌だった。ただ、わたしは小夜子さんのことが少し、気がかりだった。
「おかあさんはね、すごく恥ずかしがり屋さんなんだよ。ユリちゃんといっしょだね」
隣に座ったマモルくんが、そうつぶやいた。このとき初めて、わたしはマモルくんがわたしの心を読めることを強く意識したのだった。それは、今までの安心感と少し違い、小さな恐れを含んだ違和感だった。
マモルくんは、顔色を変えたわたしを見て、とてもとても寂しそうな顔をして、すぐに帰ってしまった。
夕方、みんなが帰ってから、わたしは一房の葡萄を持って、隣家に行った。マモルくんは、白いアーチの門の下にいた。
「ごめんね。すぐに帰っちゃって」
いつもの優しい笑顔だ。わたしは心から安心した。
「一緒に葡萄を食べよう」
薔薇の季節ではなかったので、あのいいにおいはしなかったが、薄緑の葡萄のほのかな甘さが、わたしたちを安定したきもちにさせてくれた。
「このタネ、蒔いてみる?」
「蒔いてみようか」
夏の夕暮れは、なかなか終わろうとせず、いつまでも一定の明るさを保っているかのようだった。
◆◆◆
夏休みも終わりに近づいたある日、ピアノの調律師だと名乗る人が、片桐家はこのあたりかと我が家の前で母にきいた。母は、横手にある小道を指差し、この奥ですと答えていた。わたしはマモルくんの家で宿題をしようと、玄関で靴を履いていたのだが、外に出ると庭掃除の母に止められた。
「お隣はお客様だから、後にしなさい」
マモルくんの家の一階に、黒いグランドピアノがあることは知っていた。けれども、彼も小夜子さんも、それを弾いてはいなかった。あのピアノは誰が弾くんだろう。わたしはふと思った。そばにマモルくんがいれば、思っただけですぐに答えてくれるんだろうな。
「それじゃ、海に行って来る」
わたしは母にそう言って、表に出ると、エリも飛び出して来た。
「海ならエリも行くぅ」
「帽子をかぶって行きなさい。気をつけてね」
母に見送られて、わたしとエリは海岸に向かった。
「エリ、あんまり波に近づいちゃだめだよ。危ないから」
すぐにつないだ手を振りほどいてしまう妹に注意しながら、わたしはさっきの調律師のことを考えていた。ちょっと、怖そうな目をしていたっけ。
「ユリちゃーん」
マモルくんの声がした。驚いて振り向くと、こちらに向かって彼が駆けて来るところだった。
「どうしたの?」
そばに来て息をはずませているマモルくん。目にはなんと、涙が浮かんでいる。
「あいつはイヤだ。おかあさんを騙そうとしている」
「ダマス?」
「とにかく、あいつはダメなんだ。どうしよう」
ポケットからハンカチを出して、わたしはマモルくんの涙を拭いてあげた。そんなことしかできなかった。どうしていいか、わからなかった。
二学期が始まる前に、マモルくんと小夜子さんは引っ越して行ってしまった。わたしは見送りに出なかった。泣き腫らした目を見られたくないきもちもあったが、前の晩、あの門の下でマモルくんと会い、聞かされた話が悲しくて、とても衝撃を受けていて、混乱したままだったのだ。
◆◆◆
ユリちゃんはもう、知っているよね。僕はまわりの人の心が見えちゃうんだよ。それって、すごくおかしなことなんだってね。きもちが悪いことなんだってね。でも、そういうことを珍しがって調べたがる人がいて、僕を守るためにおとうさんは僕を隠したんだって、おかあさんが言っていたよ。
僕は幼稚園にも行ってないんだ。だから、学校で友達ができるかどうか、すごく心配だったんだけど、ユリちゃんがいてくれたから、なんだかすごくうまくいったし、楽しかったんだ。ユリちゃんのおかげだって、おかあさんも言っていたよ。ありがとうね、ユリちゃん。
だけど、僕は見つかってはいけない人に見つかっちゃったみたい。僕が泣いた日あったでしょう。あの日、ピアノの調律に来た人、誰かに頼まれて僕とおかあさんを探しに来た人だったんだ。僕は会ったとたん、あの人が「こいつだ」って言った声が聞こえて、逃げ出したんだけど、おかあさんを放っておけないもの。おかあさんをちゃんと守れるのは僕しかいないんだ。
え、おとうさん? おとうさんは僕には会いたくないみたい。やっぱり、きもち悪いのかな。赤ちゃんの頃、だっこしてくれた写真は見たことがあるんだけどね。僕がヘンだって気がついてから、僕のこと可愛くなくなっちゃったんじゃないかな。でも、僕とおかあさんのこと、ちゃんと見てくれているんだって。
明日の朝、引っ越すんだよ。おかあさんたら、ようやく危ないことに気がついて、おとうさんに相談したんだ。それでまた、隠れ家を見つけてもらったんだって。すごく遠いんだ。ユリちゃんにもう会えないかもしれない。
だけど、泣かないでね。大きくなったら、きっとユリちゃんを探しに行くから。僕のこのヘンなところは、もしかしたら大きくなると消えちゃうかもしれないって、おかあさん言ってた。そうしたら、ユリちゃん、もっと僕のこと好きになってくれる? だって、ユリちゃんもこのごろちょっと、心が見られるなんてイヤだなって思ってたでしょう? ごめんね、ユリちゃん。
いつか、大人になったら、きっと会おうね。
◆◆◆
錆びついてペンキも剥がれ落ちたアーチ型の門。赤い薔薇は、誰が植えたのだろうか。小夜子さんだろうか。特徴のある形、みずみずしい葡萄の若葉は、あの日のタネが成長したものだろうか。
そんな馬鹿な。年月がたち過ぎている。でも……。
わたしは、雲一つない五月の空を見上げた。
……いつか、大人になったら、きっと会おうね。
思い出した。全て思い出した。この町に住んでいたのはたったの一年。そして、マモルくんと過ごしたのはその半分にも満たない時間だ。けれど、こんなにあざやかな思い出をどうして今まで忘れていたのか。どうして今日急に思い出したのか。第一、あれは本当にあったことだったのか。あいまいな記憶。幼い記憶。わたしは、本当はこの記憶をとりもどしたくて、この町に来ようと思ったのではないか。
いつのまにか、涙が頬を伝い、麻のスカートに染みをつけていた。足元の青く小さな野の花が可憐だと思った。わたしは、とても悪いことをしたような気がして、心が震えた。
「ごめんなさい。マモルくん。あんなに好きだったのに、あなたのこと、ずっと忘れていた。ごめんなさい。ごめんなさい」
小さくつぶやきながら、わたしは泣いた。そよそよと風が吹き、赤い薔薇と葡萄の葉が揺れて、わたしの昂ぶるきもちをなだめてくれているようだった。泣きながらも、わたしはどこか、幸せなきもちがした。大切な探し物がみつかったような。いや、誰かに自分をみつけてもらったような……。
あれから二十二年。片桐衛という人は、どんな男性になっただろう。あの不思議なちからは、もう失ってしまったのだろうか。
(→-4-)
(←-2-)
|