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わたしたち一家はあの翌年の四月に、この町を去った。父の転勤だった。そして、何度か引越しを繰り返し、わたしが高校生の頃、ようやくマイホームというものを父が建て、そこで落ち着いた。ここからはだいぶ離れた、地方都市だ。わたしの結婚と、妹のエリの就職で、四年前からいきなり両親は二人きりにされてしまったが、楽しくやっているらしい。エリは上京し、ファッション関係の職場で頑張っている。そしてわたしは夫と暮らしている。気がつけば、わたしたち夫婦は、この町から電車一本の町に住んでいたのだ。
◆◆◆
マモルくん。会いたいよ。わたし、離婚しちゃいそうだよ……。
葡萄の揺れる葉にささやいて、わたしは涙を拭き、立ち上がった。
「だれ?」
ドキンと心臓が鳴った。庭の奥から声がしたのだ。現れたのは、白い長袖のシャツにブルージーンズの女性。モスグリーンの園芸用のエプロンをしている。そう間違いない、その人は小夜子さんだった。大きなつばの帽子の下でこちらを不審そうにみつめていたが、やがて瞳がパッと明るくなった。
「あなた、ユリちゃん?岬さんちの」
こくんと頷くわたし。六歳の女の子に戻ったみたいだ。
「まぁ、懐かしい。すっかり綺麗になって。わたしね、時々庭の手入れにここへ来るのよ。手入れっていっても、草を抜くぐらいだけどね。クルマで三十分くらいの所に住んでいるの。ユリちゃん、上がっていかない?」
廃屋のようだが、まだ入ることはできるらしい。小夜子さんは木陰に置いてあった大ぶりのバスケットを抱え、家の鍵をあけた。
生成りの布があちこちに掛けてある。ピアノもソファもあのころのままなのかもしれない。帽子を椅子に掛け、テーブルの布を取り、小夜子さんはバスケットからポットを出した。プラスチックのカップに紅茶を注ぎながら、ふふっと笑っている。
「アップルパイよ。今日持って来ているの」
「え?」
「あのね。実はね。あなたのおかあさまに、わたし、憧れていたの。お料理やお菓子作り、勉強したのよ」
小夜子さんはバスケットからパイを取り出しナイフで切って、紙皿に取り分けてくれた。
「いただきます」
おなかが鳴ってしまった。昨夜から何も食べていないのだ。
「どう?」
「とっても美味しい」
小夜子さんは、わたしたち一家が、その後どうしていたのか聞きたがった。そして、懐かしそうに目を細めていた。わたしの画廊の仕事についても、とても関心を持って質問を重ね、今度ぜひ行きたいと言ってくれた。もう、四十代も後半なのだろうが、可憐な印象は変わっていない。
「マモルくん、お元気ですか?」
ようやく、わたしは聞いた。
「あの子? 行方不明よ」
「え?」
驚くわたしを見て、小夜子さんは小さく笑った。
「嘘。ごめんね」
マモルくんは、常に旅をしていて、今どこにいるのか、いつ帰ってくるのか、わからないのだという。
「でも今は多分、東京にいるんだと思うの。わたしが結婚してから、あまり連絡をしてくれなくなっちゃったわ」
「結婚……なさったんですか?」
「と言っても、衛の父親となんだけどね。わたしは、衛とずっと二人きりで生きていくんだと思っていたのよ。主人には奥さまがいたから。経済的には支えてもらっていたけど、あの子を私生児として産んでしまって、わたしはずっと、申し訳ないと思っていたの。まさか、あの子があの人に抗議に行くなんて思わなかった。そして、あの人が奥さまと別れてわたしと一緒になってくれるなんて思わなかった。まあ、大波乱だったのだけど」
「……」
「衛ね、高校生になってから、ずいぶん頼もしくなったのよ。でも、東京の大学に入って家を出て、わたしと主人が結婚してからは、もう僕が守らなくっても大丈夫だね、なんて言って、滅多に顔を見せないの。もう二十八なんだから、そろそろ恋人でも連れて来てくれればいいのにね。あら、ってことは、ユリちゃんも二十八?」
「夏には二十九です」
小夜子さんは、とても明るくなった。マモルくんを無事大きく育て、ご主人と晴れて結婚して、きもちが安定しているのだろう。幸せなのだろう。もちろん、大波乱、なんて一言で片付けてしまっているけど、本当に大変だったに違いない。それでも今、こんなに明るい小夜子さんがここにいる。
「良かった。わたし、マモルくんはもしかしたら、本当はいなかったんじゃないかなんて、さっき思っていたんですよ」
紅茶をいただきながら、わたしは言った。
「あの子、不思議なところがあったからね」
小夜子さんが微笑む。
「あの……今でもそうなんですか?」
「……いいえ。小さいころだけよ」
小さな失望。そんな自分が意外だった。マモルくんは最後の日、普通になればわたしがもっとマモルくんを好きになるって言ったけど、そんなことはない。あのままのマモルくんがいい。
「ちょっとね、いろいろ苦労したのよ、昔は。わたしも衛もね。でももう、昔のこと」
小夜子さんがそう言ったので、わたしはすぐに反省した。あのチカラのせいで、マモルくんはたくさんたくさん、辛い思いをしてきたのだ。あのチカラ、なくなって良かったじゃない。
「ユリちゃん、結婚は?」
「えへ。もうすぐ離婚かも」
「え」
何故だろう。こんなに簡単に人に話せるなんて思っていなかったが、わたしは小夜子さんになら聞いてもらいたいと思ったのだった。
「理由は、うまく言えないんですけど、きっと子どもすぎるんです、わたしが。与えられることばかり期待して、彼が傷ついていたり怒っていたりすると、どうしていいかわからなくなっちゃうんです。なぐさめたくてもそれがうまくできない。困っているだけ。そのうちに、こんなはずじゃなかった、だなんて悲しくなってきて。逆にわたしが悩んでいるときに、彼が気づいてくれなかったり、彼自身に余裕がないことも多いんです。あんまりわたしのこと、好きじゃないのかな、なんて思って、わたし、すごく不機嫌になっちゃう。ここ数年、ずっとそんな感じで。昨夜ついに別れ話が出ちゃった」
思いがけず涙が出てしまい、小夜子さんを困らせてしまったことを悔やんだ。
「ユリちゃん、二階へ行こうか」
顔を上げたわたしに、小夜子さんはにっこり笑って立ち上がり、おいでおいでをした。
マモルくんの部屋も、生成りの布がたくさん家具に掛けられていた。でも、時々空気を入れ替えてもらっているのだろう、部屋は眠りの底にあったようには見えなかった。やはり、懐かしい。
小夜子さんはまっすぐ出窓に向かい、扉をあけ放った。あの日のような、海が見えた。初めてこの家に呼んでもらった日。小夜子さんと、マモルくんと、三人で並んで海を見た日。
「水平線を見ているとね。今、自分は旅の途中なんだって思えるの。自分の意思で出た旅よ。それでね、これは旅なんだからいつでも帰れるって思うのよね。いつでも帰れるから、もう少し、旅を続けようかなって」
小夜子さんの横顔は美しかった。西に傾きかけた太陽の光が、彼女の彫りの深い横顔を輝かせている。まだ少女ともいえる年齢で、妻のいる大人の男性と恋をして、男の子を産み、なかば隠すかのように育て、守ってきた人。耐えがたい気持ちになったことは、一度や二度ではないだろう。いつでも帰れる場所とは、もしかしたら「死」のことを言っているのかもしれない。
「岬さんのご一家がお隣に越してこなかったら、わたし、どうなっていたかしら」
「わたしたちが?」
「特に、あなたのおかあさま。優しくしていただいたわ。とても」
「そうだったんですか」
「あなたもエリちゃんも、可愛くていいお嬢さんだった」
「小夜子さんもマモルくんも、優しかったです」
「わたし、あのころはまだ、毎日心細くって泣いていたのよ。衛を育てながら、衛に守ってもらっていたな。アップルパイ、あなたのおかあさまにお礼を言ったときね、何て言われたと思う?」
「さぁ?」
「おかあさまったらね。小夜子さん、わたしの娘になる?って」
一瞬黙った後、わたしはえぇっと大声を出し笑ってしまった。
「そんなこと言える人、初めて知ったわ。旅はつらいことも多いけど、楽しいこともあるものだって思ったわよ」
小夜子さんも笑っている。少し涙を浮かべながら。なんともはや、子どもの知らないところで、親たちにもドラマチックな交流があったのだ。
「一度だけ、手紙を出したの。差出しの住所を書かずに。あなたのおかあさまに、とても失礼なことをしちゃった。良かったら今の住所を教えてくれる? 今度はちゃんとわたしの住所も書くから。それから……あなたの住所や電話番号も」
「いいですけど、わたしのはすぐに変わるかもしれませんよ」
「……」
小夜子さんはわたしをじっとみつめた。深い深い、瞳の色。
「ユリちゃんは、多分、別れないわよ」
◆◆◆
クルマで駅まで送ってくれるという小夜子さんの申し出を断り、お礼を言って別れた後、わたしはもう少し、町をうろつくことにした。アップルパイと紅茶のおかげで、悲壮感はずいぶん軽くなっている。空腹はいけないのだ。それに、それにもちろん、小夜子さんに会えたこと、話ができたことで、とても心が満たされている。幸せに近いと言っていいくらい。
幼い日、わたしにはマモルくんという友達がいた。彼は、わたしのことをなんでもわかってくれた。いつも理解されていたわたしは、毎日安心しきって、彼のそばにいたのだった。もしかしたら、この経験が、今のわたしの甘えにつながっているかもしれない。彼は母親を守り、わたしをも守ってくれていたのだ。彼自身はそのチカラに苦しんでいたというのに。
彼がわたしのもとから去っていく日。わたしは、本当のところ、なにがショックだったのだろう。大好きなマモルくんがいなくなってしまうこと? マモルくんが怖い人たちに追われていること? その原因があのチカラで、そのせいでマモルくんがわたしから離れて行ってしまうこと? いや、マモルくんがそのチカラに怯え、憎んでいたのを、わたしが知らなかったことだろう、きっと。
七歳のわたしにとっては、ノーマルな別れ方じゃなかったあの日は、思い出として耐えられなかったのかもしれない。封印したいというきもちに近かったかもしれない。幸せな日々を忘れていようと、早く忘れなくてはと、幼心に思っていたのかな。そしてわたしが忘れてしまえば、あのチカラのことを、マモルくんはもう、気にしなくてすむようになるだろうって。
秘密の小道を歩く。切り株を見つけた。マモルくんと初めて会った場所。潮騒しか聞こえてこない。わたしはそこに腰掛けて、耳をすました。
「こんにちは」
あの日の、マモルくんの声が聞こえてきそうだ。まぶしい笑顔が見えてきそうだ。
さようならは、全てを過去に押しやってしまった。繋がっていくと信じていた時間を断ち切ってしまった。哀しい別れとは、そういうものなのだ。そのことを思い出させてくれた。
「……ここへ来て良かった」
(→-5-)
(←-3-)
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