|
|
A |
|
|
|
短編小説
|
|
水平線とアップルパイ |
|
| かなりあ月子 | |
|
そろそろ、ちゃんと向き合わなければならないと思った。わたしたち夫婦のことを。甘えていないで、すねていないで、大人のパートナーとして、ちゃんと考えなくては。けれども、わたしにはもう、ほとんど別れたい理由が見つからなかったのだ。今のわたしなら、きっと大丈夫。うまくいく。不思議だが、そんな自信がある。
わたしには、昔、マモルくんという小さな恋人がいた。そして、彼に丸ごと受け入れてもらえていた。それは、甘えにもつながったかもしれないが、誰かに丸ごと受け入れてもらえたという最初の自信になったのだ。今、マモルくんを思い出すことで、最初の自信をも思い出すことができた。わたしには、愛される価値がきっとある。こんなわたしだけれど……。
それにやっぱり、わたしは夫の陽介を失いたくない。愛しているのだ。本当に鈍感だなって、思うこともたびたびだけど。
秘密の小道を抜けると、空は夕映えに輝いていた。何もかもがオレンジ色に染められている。わたしの大切な思い出が、美しい町で良かった。誰にともなく、感謝したいきもちだった。
あの隠れ家のような洋館は、一度手放したものの、その何年後かにまた、マモルくんのおとうさんが取り戻したようだ。近いうちに手を入れて、小夜子さんと二人で住むつもりらしいとのことだった。だとしたら、マモルくんもたまには、この町に来るようになるのかもしれない。そして、わたしのことを思い出してくれるかもしれない。わたしたちの幼い思い出をなつかしんでくれるかもしれない。そんなことを考えていたら、自然に口元がほころんできた。
◆◆◆
駅へと歩きながら、わたしはもう、夫の優しい瞳が恋しくなっていた。会いたくて会いたくて、今日何度目かの涙をこぼしそうになり、慌てた。胸を満たしているたくさんの思いまでこぼさないようにと、大切に、自分の本当の心を大切にと、わたしは注意深く一歩一歩、進んだ。
「もしもし。ユリか?」
思いがけない人の名前を耳にして少し面くらいながらも、以前紹介され、その後ときどき画廊に来てくれる夫の直属の上司の顔を、わたしは思い浮かべた。仕事ができて、人望もあって、美しくて、品が良くて、非のうちどころがない彼女に、最初は軽い反発も覚えたが、実はずぅっと憧れている。あんな人が職場にいては、たまらないな。比べられたらたまらないな。彼女の同僚や部下の妻たちは、みんなそう思っていることだろう。けれど、つまらないジェラシーだ。それはともかく、何故今、彼女の名前が夫の口から出るのか?
「木ノ内課長がなんて?」
わたしこそ、と言いたかったけど、わたしは胸がつまって言葉が出てこなかった。しばらく黙っていると、夫が訊いた。
◆◆◆
駅の改札から、見慣れたシルエットが近づいてくる。わたしは一瞬、何が起こったかわからなくなり、受話器を置いて電話ボックスを出た。
……けれども、手を伸ばしながらも心にひっかかることはある。たとえ自分も憧れる素敵な女性であっても、今こういう状況の中で他の女性の名前を耳にしたくはなかったし、その人に言われて気づいたように思える陽介にはやはり苛立ちを覚えるのだ。
心の中でつぶやいたときだった。ふと視線を感じたのだ。そちらに目を向けると同時に陽介に抱きすくめられた。
改札口近く、こちらを見て驚いた顔をし、やがて笑顔になった人。メガネの奥の優しい目。とても綺麗な目。その面影。間違いない、マモルくんだ。
夫の腕の中で、熱くなる頬と激しくなる胸の高鳴りに戸惑いながら、夫の肩越しに彼らの後姿を目で追った。このドキドキは夫のせい? マモルくんのせい? やがて、自分でもわけのわからないきもちがこみ上げてきて、くすくすと笑い出してしまったわたし。何故か可笑しくてたまらない。わたしの人生にこんな奇妙な瞬間があるなんて。
「なんだよ。なんで笑うんだよ。ユリ?」 |
|
| |
||
| A |