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よみたい!ネット
短編小説

 

水平線とアップルパイ
 -5-


かなりあ月子  
 

 

 そろそろ、ちゃんと向き合わなければならないと思った。わたしたち夫婦のことを。甘えていないで、すねていないで、大人のパートナーとして、ちゃんと考えなくては。けれども、わたしにはもう、ほとんど別れたい理由が見つからなかったのだ。今のわたしなら、きっと大丈夫。うまくいく。不思議だが、そんな自信がある。
 小夜子さんに言われたせいかもしれない。でも、それだけじゃない。

 

 わたしには、昔、マモルくんという小さな恋人がいた。そして、彼に丸ごと受け入れてもらえていた。それは、甘えにもつながったかもしれないが、誰かに丸ごと受け入れてもらえたという最初の自信になったのだ。今、マモルくんを思い出すことで、最初の自信をも思い出すことができた。わたしには、愛される価値がきっとある。こんなわたしだけれど……。
 ちょっと怖い大きな秘密と、ときめくようなたくさんの小さな秘密を、共有しているマモルくん。マモルくんは、わたしにとっての水平線なのかもしれない。いつでもそこにあり、いつでも帰って行くことのできる、二人の思い出。いつでも帰れるのだから、もう少し、旅を続けてみようかな。

 

 それにやっぱり、わたしは夫の陽介を失いたくない。愛しているのだ。本当に鈍感だなって、思うこともたびたびだけど。
 ひたすら愛された頃の安心感を思い出す。父や母に愛された記憶のように。陽介のぬくもりに包まれながら、幸せの夢の海にすぅっと落ちていった日々。それはそんなに昔のことではないのだった。そしてそれを永遠に失うことは、わたしには耐えられそうもない。

 

 秘密の小道を抜けると、空は夕映えに輝いていた。何もかもがオレンジ色に染められている。わたしの大切な思い出が、美しい町で良かった。誰にともなく、感謝したいきもちだった。

 

 あの隠れ家のような洋館は、一度手放したものの、その何年後かにまた、マモルくんのおとうさんが取り戻したようだ。近いうちに手を入れて、小夜子さんと二人で住むつもりらしいとのことだった。だとしたら、マモルくんもたまには、この町に来るようになるのかもしれない。そして、わたしのことを思い出してくれるかもしれない。わたしたちの幼い思い出をなつかしんでくれるかもしれない。そんなことを考えていたら、自然に口元がほころんできた。

 

 

 駅へと歩きながら、わたしはもう、夫の優しい瞳が恋しくなっていた。会いたくて会いたくて、今日何度目かの涙をこぼしそうになり、慌てた。胸を満たしているたくさんの思いまでこぼさないようにと、大切に、自分の本当の心を大切にと、わたしは注意深く一歩一歩、進んだ。
 そして、駅前に赤い電話ボックスを見つけた。バッグから携帯電話を出すのは何故かためらわれたが、公衆電話なら大丈夫な気がした。今のきもちのまま、素直に話せそうだ。初めて出会ったころのような、胸の高鳴りを感じながら、陽介の携帯電話の番号を押す。
 怒っているだろうか。呆れているだろうか。ふいに不安になる。

 

 「もしもし。ユリか?」
 「うん」
 「なんで消えちゃうんだよ」
 「ごめんなさい」
 「撤回したかったのに」
 「え?」
 「昨夜、もうだめかもしれないって言ったこと」
 「陽介」
 「まいったな。昨日、木ノ内さんに言われたとおりになっちゃったよ」
 「木ノ内さんって、陽介の上司の、あの綺麗な女性課長?」

 

 思いがけない人の名前を耳にして少し面くらいながらも、以前紹介され、その後ときどき画廊に来てくれる夫の直属の上司の顔を、わたしは思い浮かべた。仕事ができて、人望もあって、美しくて、品が良くて、非のうちどころがない彼女に、最初は軽い反発も覚えたが、実はずぅっと憧れている。あんな人が職場にいては、たまらないな。比べられたらたまらないな。彼女の同僚や部下の妻たちは、みんなそう思っていることだろう。けれど、つまらないジェラシーだ。それはともかく、何故今、彼女の名前が夫の口から出るのか?

 

 「木ノ内課長がなんて?」
 「仕事でちょっとトラブルがあってね。昨日彼女に報告したときについ自己弁護したんだ。そうしたらあなたらしくないって。最近の俺は余裕がないうえに甘えているんだってさ。仕事のミスよりもそっちの方が心配だって言われたよ。正直、そのときは腹が立ったな」
 「……」
 「でも、本当にそうだな、自分はガキだなって思い始めて。謝ったんだ。なのに、追い討ちかけるんだぜ、木ノ内さん」
 「どういうこと?」
 「昔のあなたが好きで結婚したユリさんだって、今のあなたには歯痒い思いをしていると思うわ、だって」
 「本当に?」
 「わたしなら仕事から疲れて帰って、そんな根性の男の世話なんてできないわよ。あなた、ユリさんの仕事の邪魔をしてるとは思わないの、だって。大きなお世話だって思ったさ。事実だと思うから余計に腹も立って、昨日はめちゃくちゃ不機嫌だった」
 「どおりで」
 「……ごめんな。大人気ないよな。やっぱり木ノ内さんの言うとおりだったよ。ユリに甘えてた」

 

 わたしこそ、と言いたかったけど、わたしは胸がつまって言葉が出てこなかった。しばらく黙っていると、夫が訊いた。
 「帰ってくるんだよな?」
 「いい?」
 「迎えに行こうか?」
 「電車に乗るだけだから、大丈夫」
 「でも、もう来ちゃった」
 「え?」

 

 

 駅の改札から、見慣れたシルエットが近づいてくる。わたしは一瞬、何が起こったかわからなくなり、受話器を置いて電話ボックスを出た。
 小夜子さんの笑顔が胸に浮かぶ。さっき連絡先を告げた後、陽介に電話してくれたに違いない。そう、小夜子さんのように、木ノ内さんのように、そして母のように、わたしも素敵な大人の女性になりたい。半分べそをかきながら、わたしは自分を変えたいと願っていた。そして、危うく失いかけた大切なものへと、そっと手を伸ばす。

 

 ……けれども、手を伸ばしながらも心にひっかかることはある。たとえ自分も憧れる素敵な女性であっても、今こういう状況の中で他の女性の名前を耳にしたくはなかったし、その人に言われて気づいたように思える陽介にはやはり苛立ちを覚えるのだ。
 そういうところ、本当に鈍感だと思ってしまう。こうして駆けつけてくれたのに、その不器用さゆえに感激も割り引かれる結果になる。この人はそのことに気づいていない。
 まあ、しかたがないのだ。だって、陽介はマモルくんじゃないんだもの。きちんと言葉で伝えなくてはわからない。それでもわたしは陽介が好き。失いたくない。だからこれからはたくさんたくさん話をしようと思う。言葉で伝えようと思う。それでいいんだよね?マモルくん。

 

 心の中でつぶやいたときだった。ふと視線を感じたのだ。そちらに目を向けると同時に陽介に抱きすくめられた。
 ごめん。陽介。せっかくのラブシーンの瞬間、わたしは初恋の相手と目が合ってしまったわ。

 

 改札口近く、こちらを見て驚いた顔をし、やがて笑顔になった人。メガネの奥の優しい目。とても綺麗な目。その面影。間違いない、マモルくんだ。
 「片桐くん、どうしたの?」
 すらりと背の高い連れの女性に声をかけられて、彼はこちらに小さくウィンクをして行ってしまった。わたしのことがわかったのだ。

 

 夫の腕の中で、熱くなる頬と激しくなる胸の高鳴りに戸惑いながら、夫の肩越しに彼らの後姿を目で追った。このドキドキは夫のせい? マモルくんのせい? やがて、自分でもわけのわからないきもちがこみ上げてきて、くすくすと笑い出してしまったわたし。何故か可笑しくてたまらない。わたしの人生にこんな奇妙な瞬間があるなんて。

 

 「なんだよ。なんで笑うんだよ。ユリ?」
 「ごめんなさい。なんだかね、生きているって楽しいなって思って」
 陽介は不審そうに顔をしかめた後、ニコリとして、帰るぞと、わたしの頭に手を置いた。それから、わたしたちは手をつなぎ、改札に向かって歩き出した。五月の夕暮れの涼やかな風が吹き過ぎていった。 (了)

(←-4-)

 

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