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よみたい!ネット
ショートストーリー

 

月夜のリゾット


かなりあ月子  
 

 

 その店を見つけたのは、恋人と別れた夜だった。5年も前のことである。
 「奈津子、仕事頑張れよ」
 今でも覚えている、別れ際に発した恋人の言葉。柔らかいまなざしで、少し憂いを込めて、彼は最後にそう言った。
 私たちは、夕暮れのカフェテラスで、いつものようにコーヒーを飲んでいた。最後に食事を、と誘ってくれた彼に、ここで別れましょう、と微笑んでみせたあの日の私。だんだん日が短くなるわねえ、ニューヨークはもう肌寒いかもしれないわよ、なんて、翌週機上の人となる彼を気遣う余裕さえみせていた。それは、精一杯の強がりだった。本当は、この結末を受け入れがたくて、テーブルの下で膝がガクガク震えていたのに。

 

 オフィス街を抜けて繁華街へ出た。デパートやブランドショップが建ち並ぶ並木通り。金曜日のアフターファイブは大変な賑わいだった。電車に乗ったが、なんとなくそのまま帰る気にもなれず、かといって行きたい場所があるでもなく、私はいくつかの駅で電車を乗り換えてみた。ぼんやりと、何も考えられず、涙も出ず、力も抜けて、どうしていいかわからないまま、最後の彼の言葉をかみしめていた。
 仕事、頑張れよ。仕事、頑張れよ。仕事、頑張れよ・・・

 

 そう、別れの原因は、私の仕事への執着だと恋人は思っていたはずだ。商社勤めの彼は、当時ニューヨーク支店への転勤が決まり、私に「ついてきて欲しい」と言ってくれた。それは同時にプロポーズでもあった。しかし私は仕事を選び、やがて彼もそれを受け入れた。
 本当は彼を失いたくなかった。全ては私の、臆病なくせに意地っ張りな性格が悪かったのだ。2年ほどの交際で、私は一度も彼に甘えたことがなかったと思う。そういう強い女性が好きなのだと彼は言ってくれたけど、甘えないのは私が強かったからではない。「オトコのために仕事を辞めるなんてできない。それほどの仕事かどうかという話ではなく、信念の問題なのだ」と、そう自分に言い聞かせていたあの頃の私。いやいや、ただ我を張っていた可愛い気のない女だったのだ。

 

 終わってしまった。
 見知らぬ駅で降り、暗くなりかけた空を見上げて、私は初めて「別れ」を実感した。もう、多分二度と会えないだろう。自分で出した結論なのだ。私はニューヨークなんて行けないし、遠距離をものともせず付き合い続けることもできない。だから、未練に思うのはよそう。本当に強いつもりになって。
 喪失感と戦おうと、ようやく思考が働き出したのに、今度は涙があふれてきてどうしようもなくなった。
 何という駅で降りたのかわからない。とぼとぼと、夕暮れから夜に移り変わる景色の中を歩き続けた。道行く人は急ぎ足で、皆、頬を輝かせ幸せそうに見えた。待っている人のもとへ、急いでいるのだ。誰かに会うために急いでいるのだ。秋の黄昏どきって、なんて人恋しくて寂しくて、残酷なんだろう。ポロポロと涙がこぼれ、風に飛ばされていった。金木犀の花が香った。

 

 歩き続けて、いつしかすっかり夜が更けてしまい、足が痛いことに気づいた私だった。疲れた。とてもみじめだった。ちっぽけで情けない存在。会社の企画会議でスタッフを叱咤激励している私とはまるで別人。ハイヒールは傷だらけだし、メイクも涙で滅茶苦茶だった。
 そしてついに、足がよろけて転んでしまった。膝をついてもよろめきを止められず、顔まで地面に落ちてしまった。ブザマなこと、この上なし。膝と手の平が鋭く痛む。住宅街の人気のない歩道で、なかなか立ち上がれないまま顔を上げると、いつのまにか、満月がぽっかりと目の前に浮かんでいた。白く清らかに輝いて、ボロ雑巾みたいな私に同情してくれているかのよう。思わず声を上げて泣き出しそうになったとき、ニャーオ、という声が聞こえた。

 

 振り向くと、真っ白な大きな猫がいた。瞳が月明かりに青く照らされて、宝石のように美しい。猫は少し進んではこちらを振り返った。まるで、こっちへおいで、と言っているように。
 よろよろと立ち上がり、猫の後をついて行った。

 

 

 『Lacrima』・・・ラクリマ。それが、その店の名前だった。どうやらレストランらしい。蔦に彩られた煉瓦造りの外観が小さな電球でライトアップされていて、少し洒落ている。猫は静かにドアを押して店の中に入って行った。少し遅れて、私もドアを押した。

 

 その後のことは、実はよく覚えていない。年月がたったせいではなく、あの日自分の部屋に帰ってから思い出そうとしても、その店での出来事は、紗がかかったようにおぼろで頼りない記憶だったのだ。
 ただ、中年の髭の似合うマスターがいたこと。ラクリマはイタリア語で「涙」という意味だと教えてもらったこと。他にお客はいなくて、少しワインを飲んだ後、そう、とても美味しいリゾットを食べさせてもらったことは覚えていた。
 それからずいぶん長い時間、私の話を聞いてもらった気がする。多分マスターが上手に聞き出してくれたのだ。恋人との出会いや、彼がどんなに優しく紳士的だったかとか、自分が意地っ張りなために別れてしまったのだとか、微笑んで相槌を打ってくれるマスターに甘えて、ずっとしゃべり続けた。
 それで、私はすっかりくつろいで、気持ちが楽になったような覚えがある。もう全て過去にしてしまえたような、まるで長い時間をかけて傷を癒したような、不思議な心の軽さを感じていた。
 他に覚えていたのは、私が見た白い猫は店にいなかったこと。代わりに若い男の子がいたこと。その彼が私をバイクでマンションまで送ってくれたこと。

 

 いろいろ不思議には感じたのだけど、何より驚いたのは、翌朝会社が休みだと思ってゆっくり寝ていたら、同僚から電話がかかってきてこう告げられたときだった。
 「何してるの、月曜日から大遅刻じゃないの。あなたらしくない!」と。
 昨夜は金曜日だったはず。いったいどうなってるの?
 慌てて身支度を整えながら、私は大混乱を起こしていた。これじゃまるで、竜宮城じゃないの。

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