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「美帆子」
名前を呼ばれて振り向くと花のような笑顔があった。大学時代からの友人、木ノ内優奈である。お待たせ、と小首を傾げている。もうすぐ42歳になるとはとても思えない可憐な表情に、一瞬見とれてしまう私。
「私も今来たところよ。久しぶり。2年くらい、かな?」
「うーん。それくらいね。美帆子、変わってないね」
「優奈こそ。っていうか、あなたは昔から全然年をとらないみたいじゃないの」
「そんなことないってば。これでも毎日苦労してるんだから」
私と優奈は並んで改札口に向かって歩き出す。
優奈は広告代理店に勤めていて、以前、確か課長になったと聞いた。管理職はやはり大変なのだろうな、と想像してみる。片や私は貧乏イラストレーター。悩みは仕事数の減少による生活苦と才能の枯渇だ。優奈は昔から美人で上品で頭が良く、私はまるで反対。そんな似ても似つかぬ二人だけど、実は共通点がある。それは、一度も結婚していないことと、一度も子どもを産んでいないこと。そして、たった一人の男を愛し続けることしかできない不器用さ。だからというわけではないけれど、何故か気が合う私たちだ。卒業してからも、たまに連絡を取り合ってはこうして会っている。
土曜日の夕方のターミナル駅は大変な混雑ぶりで、落ち着いて話などしていられない。すぐに二人は電車に乗り込んだ。
「まだあるかな、アパート」
「もうないでしょ、きっと」
今日はこれから、20年前に私たちが住んでいた町へ行くことになっている。3日ほど前に優奈が電話してきて、行ってみようよと誘ったからだ。あの辺りを少し歩いて、どこか近くで食事でもしたい、と。
電車の窓から外を見ていると、学生の頃の私たちに戻っていくようだ。といっても、私と優奈は別々の大学に通っていた。たまたま同じアパートの隣同士に住むことになったので、仲良くなったわけである。私は地方から美大に通うために上京してきたけれど、優奈の実家は都内にある。それでも彼女が大学入学をきっかけに家を出たのは、やはりお父さんの再婚相手に遠慮があったのだと思う。彼女は違うと言っていたけれど。
「ねえ、優奈。お家の人たち、皆さんお元気?」
「ありがとう。元気よ」
「あの、年の離れた妹ちゃんはどうしてる?あ、でももう30になるんだよね」
「風葉はグラフィックデザインの仕事をなんとかやってるわ。もしかしたらそろそろ結婚するかもしれない。素敵な彼氏がいるのよ」
「あらら、あのカザハちゃんが? 負けちゃうねえ、私たち」
私は大学時代に会った小学生のカザハちゃんの姿をなつかしく思い出した。優奈がとても可愛がっていたっけ。最近も会ったつもりでいたが、よく考えるとそれはもう6、7年前になるのだ。スラリと背が高く、男の子みたいなショートカットが可愛い子だった。あの子が結婚するのか。結婚。結婚・・・
◆◆◆
なつかしい駅に着いた。4年間暮らした町だ。駅前の風景はほとんど変わってしまったけれど、小さな商店街には見覚えのあるお店がまだいくつか残っていてほっとした。八百屋さんや豆腐屋さんの前には昔と変わらない人垣ができていたし、お肉屋さんの名物コロッケコーナー前の行列もあの頃のままだった。角のお花屋さんではよく切り花を安く分けてもらったっけ。パン屋さんの建物はきれいになったけど、店名は同じだったのが何故かすごく嬉しい。40を過ぎた女二人が、商店街のあちこちで足を止め、小さく叫んだり小躍りしたり。傍目にはさぞや奇妙に映ったことだろう。
商店街を抜けると公園沿いの緑道に出る。細長いその公園にあるブランコに腰掛けて、コロッケをほおばったのを思い出す。公園の向こう側はさっき乗った電車の走る線路が続いている。速度を落として駅に滑り込む電車を見下ろしながら、私は恋人を待ったものだ。パンや花を抱えた恵一が背中に声をかけてくれるのを待っていた。でも、声をかけてくれたのは優奈の方が圧倒的に多かった。美帆子、風邪ひくよ。
「美帆子、よくあそこにいたね」
優奈がなつかしそうにブランコを指さす。沈丁花が香った。それにしても日が長くなったものだ。6時を過ぎたのにまだこんなに明るい。
ここからアパートまで、優奈とよく一緒に帰った。ときどきは優奈の隣に久史もいた。彼らは本当に仲の良いカップルだった。絶対に結婚するものだと思っていたから、別れたと聞いたときは驚いた。しかし、その後も優奈は一途に久史を想い続けたのだ。久史が他の女性と結婚してからも。
「ああ、やっぱりなくなっちゃってる」
「コンビニになっちゃったね」
私たちの青春の思い出が詰まったあのアパートはすでにこの世にはない。そう確認したとき、残念に思うよりも小さな安堵を覚えた。あの部屋に他の誰かが暮らしていたり、外観が見る影もなくおんぼろになっていたりしたらどうしよう、と思っていた。そんな姿は見たくなかったのだ。上下2部屋づつの小さなアパートだけど、白くて綺麗な建物だった。可愛いらしい印象だった。そのままの姿で記憶に焼き付いていてほしい。優奈もおそらく同じような気持ちなのだろう、ため息をつきながらもニコニコしている。
「この先の洋食屋さん、まだあるかしら?」
優奈はもう歩き出した。洋食屋。そういえば、バイト代が入るとその店で夕ご飯を食べることにしていた気がする。優奈と二人で行ったり、恵一と二人で行ったり、たまには四人で食事したこともあった。一輪挿しが置かれた赤と白のギンガムチェックのテーブルクロス。そこに涙の染みを付けた日もあったけど。
◆◆◆
あの頃の私と優奈は、もしかしたらまわりから少し浮いていたかもしれない。華やかに暮らす学生が多かったから。流行のファッションに身を包んだり、夜毎ディスコに繰り出したり、スポーツカーでドライブしたり。私たちはそういうことに、全然興味がなかった。レノマのバッグもミハマの靴も欲しくなかったし、テニスラケットを持って街に出かける人たちの気が知れなかった。
「私たちって、ひたすら恋とバイトに燃えてたよね」
そう優奈に言ってみたら、彼女は笑いながら頷いた。優奈は早く自立して親からの援助を卒業したかったし、お金を貯めて一日も早く久史と暮らしたかったのだ。一方、私は美術教師を目指していた。バイトは単純に生活のため。そして、恵一とは一緒になれないと漠然と感じていた。
恵一は同じ美大の同級生。付き合い始めて間もなく、彼は国際協力団体に関心を寄せていった。そして、バイトで資金を貯めてはアフリカやアジアに飛び、現地で活躍しているNGOやNPOの手伝いをするようになった。貧困地域の子ども達の教育や医療を支援する活動に真剣だったのだ。やがて大学も中退して活動に本腰を入れることになった。恵一のそういうところが好きだったけど、彼はきっと一生結婚など望まないんだろうな、と思って私は少し寂しかった。
事実、いまだにプロポーズなどされたことはないし、たまに日本に帰って来ると電話してきて、一緒にお酒を飲むというだけの関係が続いている。最後に会ったのはもう1年以上前になる。今頃は多分、ネパールの空の下だ。
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