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また夏が来て、またひとつ、歳をとった。いや、年齢を重ねた、と言っておこう。少しはポジティブに聞こえるから。まあ、どうだっていいのだ、本当は。
ここ数年は、誕生日も空しく過ぎていく。友だちの何人かがメールや電話をくれるけど、一人暮らしで恋人もいない私には、バースデイだろうがなんだろうが、慌しく過ぎていく毎日のうちの一日に過ぎない。でも37歳というのは、正直ずっしりとくる。36歳になったときは、これほどではなかった。そこにどんな違いがあるというのだろう?
初めまして、37歳の私。鏡に向かって微笑んでみる。ああ、それなりにいいシワが刻まれたじゃん、なんて自虐的に呟く。今日も悪ガキのたむろする学校へ、いざ出動だ。
高校教師、なのである、一応。これでけっこう授業には定評のある数学教師。青春真っ只中の生徒諸君に野暮な数学を教えて、その暴走しがちな若いエンジンにしばしば冷水を浴びせてやるのが私の仕事。厳しいと言われようが怖いと言われようが、構うものか。
それでも、私はまんざら嫌われているわけではないらしい。
「日菜子先生、お誕生日おめでとうございます」
「あ、おはよう。えー、誕生日って知ってたの?」
登校中、女生徒の何人かが声をかけてくれた。彼女たちと校門をくぐる。可愛い子もいれば可愛くないのもいる。
「よ、日菜ちゃん、37になったって? ご愁傷さまー」
「こら、あんたなんで知ってんのよ!」
ちょっと小突く真似をすると嬉しそうに逃げていく。ウソ、こいつも可愛いのだ、実は。
そう、生徒は可愛い。でも私は、いつからか情熱を持って「先生」をやっていくことができなくなってしまった。
多感な少年少女たちは、毎年多かれ少なかれ、「問題」や「事件」を起こしてくれる。先生方の「不祥事」も、残念だが時々、ある。が、12年前に前の学校で自分が起こした「不祥事」ほど、私自身にダメージを与えたものはない。あのときは立ち直れないと思っていた。しかし、今こうしてまだ教師を続けているということは、客観的に見れば立ち直ったということなのだろうか。本当は、教師を辞めたらどこまでも崩れ落ちてしまいそうで、それが怖いから、辞めなかっただけのことなのだ。
今日は誕生日。何事もなく授業をこなし、生徒たちと談笑し、いつも通りに時間が過ぎていく。放課後になって一本の電話が私に取りつがれるまで。
「先生。日菜子先生。僕です」
私は息が止まるほど驚いた。あの日以来、聞かなかった彼の声。でもすぐにわかった。
「先生?」
「・・・片桐君なの?」
「そうです。ご無沙汰してます。いきなりすみません」
帰りに片桐君と会うことになった。待ち合わせの場所へ向かう道すがら、私はブティックのガラスに映りこんだ自分の姿に気づき、思わず足を止めた。12年前と今の私、変わったよね、当たり前だけど。でもちょっとだけ? それともすっかり? そして、今もまだ残る心の古傷から目をそむける。私は教師なのだ。
片桐衛は転校生だった。私の担任するクラスに入ることが決まり、初めて紹介されたとき、彼の隣で微笑む女性の姿に軽い衝撃を受けたのを覚えている。母親だというその人は、まるで少女のようだった。ほっそりとした体に淡いブルーのワンピースをまとい、透けるような白い肌に薄いピンクの口紅をひいていた。どこか怯えたようなはかなげな様子も、とても高校生の母親には見えなかったのだ。
そんな母親をまるで庇うかのように、片桐衛ははきはきと挨拶をした。聡明そうな額と形の良い眉が印象的で、ハンサムではないが目が知的で美しかった。
教室での彼は、とても成績が良く朗らかだったが、全体としておとなしく、目立たぬよう意識しているかとも思えた。休み時間には大体図書室にいて、私がそばを通ると目を上げて微笑んでくれる。私はいつしか、彼のことが気になって仕方なくなった。生徒に対して、そんな感情を持ったのは初めてのことである。彼に会いたくて図書館に急ぐ自分。我ながら呆れ、動揺し、そして抑えられなくなりそうな自分の心に怯えた。
当時、私には学生時代から交際している恋人がいた。長い付き合いで情熱はすでに限りなく淡くなってしまっていたが、気心も知れていてお互いラクだったし、どちらの親も公認で、このまま結婚するんだろうと思っていた。
それなのに、片桐衛に惹かれはじめてから、私は変わってしまった。
◆◆◆
「先生、ここです」
待ち合わせに彼が指定した小さなレストランをようやく見つけ、扉を押したとき、あの声が私を呼んだ。そこには、すっかり青年らしく成長した片桐衛がいた。一瞬たじろいだ私だったが、次の瞬間なつかしさがこみ上げて、自然に笑みがこぼれる。
「本当におひさしぶり」
「お誕生日ですね、今日。おめでとうございます」
「覚えていてくれたのね。ありがとう。でも恥ずかしいな」
カウンターとテーブル席が三つだけの小さなお店だった。私たち以外には一組の若いカップルがいるだけ。片桐君はワインと前菜を選び、オーダーを取りに来た青年に頼んだ。
「先生、今日は僕にご馳走させてくださいね」
「でも悪いわ。まさか、夕ご飯ご馳走になるとは思わなかった」
「お誕生日に、それも突然、失礼でしたよね。お約束、あるかもしれないのに」
「ないわよ。わかってるんでしょう、あなたには」
言ってしまった後、しまった、と思う私だった。小さな沈黙が重い。
「・・・ええ。わかってしまいました」
私は胸が痛くなる。この子はまだ、あの「チカラ」を抱えて生きているのだ。ずっとその重さに耐えて生きてきたのだ。片桐君が私をみつめる。そして困ったような笑顔を作り、首を振る。心配しないで・・・。
◆◆◆
あの夏。12年前の夏。私たちはときどき言葉を交わし、ときどき電話をかけ合うようになった。そして私は、彼が両親のことで悩み、一大決心をしようとしていることを知った。彼はいわゆる私生児で、父親には別の家庭があったのだが、母のために父をその家庭から奪おうと計画していたのだ。それは傍目からも痛々しく、とうていうまくいきそうに思えない計画だった。
でも、彼に悩みがあるということは、私には都合の良いことだった。彼に会う口実ができるから。そんなふうに思う自分に嫌悪感を抱きもしたが、彼が私を心の拠りどころとしてくれるその事実に、私は陶酔した。彼の痛みと私の悦びは、日ごと暑くなる季節の中で混ざり合い膨張し、薄いゴムの水風船のように、少しずつ破滅への膨らみを続けていったのだ。
あの日。25歳の誕生日。前の晩、恋人が電話をしてきて、二人きりでバースデイパーティをしようと言ってくれた。しかし、私は上の空で、でも彼に対して気持ちがないことは既に明らかで、だから、もう別れを切り出す潮時だと覚悟を決めていたのだった。
そんな朝、授業が始まる前の廊下で、片桐君は私に「昨夜、計画を実行しました」と言った。私はハッとし、胸騒ぎがして、詳しいことを聞くために「職員室に行こう」と促した。
そこへ、見知らぬ中年女性が現れた。真っ青な顔をして、こちらに向かって廊下を歩いてくる。その暗い視線の先には片桐君がいた。
「すみません。どなたですか?これから授業が始まりますので・・・」
と言いかけた私は、彼女の手元に白くきらめくものを見つけてしまった。
気がついたときには、彼の手をとって私は駆け出していた。自分の車に彼を乗せ、ひたすら走った。
「先生、血が出てるよ!」
片桐君が助手席で驚いた声を上げたが、
「かすり傷よ!」
と運転を続けた。何が起こったのか、そのときはわからなかった。私はその女性からナイフを払い落とし、彼女がそれを拾おうとした隙に、片桐君を連れ出して逃げたのだということが、冷静になってから思い出せた。そのとき、自分も彼女も、少し傷つけてしまったらしい。
「あの人がお父さんの奥さんね」
「はい」
片桐君はハンカチを出して、出血した私の左腕を縛るから車を止めろと言った。路肩に寄せて、怪我の手当てを彼に任せた。
彼の両親は深い愛情で結ばれていたが、父親には別の家庭があった。ずっと耐えてきた母親が不憫であるから、母のために父親を奪う決心をした。単純にいえば、そういうことだ。しかし、それはかろうじて平和な均衡を保ってきた大人たちの関係を滅茶苦茶に破壊することに他ならなかった。それを、前の晩、彼は実行したのだ。父親の家に乗り込み、父親に抗議をし、その妻である女性に「別れてください」と頼む。そんな真正面からぶつかっていく方法を、彼は選んだのだった。
「馬鹿ね。そんなの、はいわかりましたって言うわけないじゃない」
「そんなことは期待してなかったですよ。石を投げたかっただけ」
「それじゃ、ほとんど嫌がらせじゃないの」
「ええ。・・・父がね、もっと怒ると思ったんだけど。意外だったんです」
「お父さん、なんて言ったの?」
「腕組みして目を閉じて、話を聞いてくれた。その後、すまなかったなって」
父親の妻は、その間、表情を強張らせたままずっと黙っていたらしい。元華族の家柄のお嬢さんだったというその女性と、父親との間には子どもはなかった。家同士の結婚だったと聞いていたが、二人の仲が良かったのかどうかは他人にはわからない。片桐君は、そんな話もしてくれた。
「でもね、僕には聞こえてきたんです。あの人の声が。・・・許さない、って」
片桐君は震えていた。それはそうだろう。ついさっき、その人は殺意を持って自分を狙ってきたのだ。でも、片桐君はこう言った。
「僕は、あの人をとんでもなく傷つけてしまったんですね。あの人、私に子どもさえいればって、本当に本当に苦しんでいた」
私は再び車を発進し、山道に入った。
片桐衛。17歳のこの少年を、担任教師である私が学校にも家庭にも連絡せず、連れ出してしまったという事実の重大さに、私はまだ思い至っていなかった。自分自身が興奮状態で、ただただ、この子を安全な場所に連れて行って休ませてあげなくては、とそればかりを考えていた。少しの時間でいい、誰の目にも触れられない場所で、心を休ませてあげたい。そのためなら何でもしようと心に決めていた。
いや、本当は違う。それだけじゃなかったはずだ。私は少年を愛してしまった。彼にとっての一番の存在になりたかった。二人きりになりたくて、その機会を待っていたのかもしれない。なんてずるいんだろう、私は。なんて汚いんだろう、私という人間は。
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