|
夕暮れ時。山里の小さなペンションにチェックインした。オーナー夫妻はこの奇妙な二人連れをさぞや怪しんだと思うが、事情を詮索することもなく、とても気持ち良く迎えてくれた。心づくしの夕食を食べながら、少しづつ、片桐君の緊張がほどけてくるのがわかった。私の誕生日だと知ると、優しい声で「おめでとう」と言ってくれた。
すぐ近くに蛍の見える場所があると、オーナーが教えてくれたので、食後、二人で出かけてみた。せせらぎの音が聞こえてきた頃、目の前に広がったその別世界。はかない小さなともし火が、ゆらめき瞬きながら星空のように広がっている。あまりの幽玄さに言葉も出てこない。立ちすくんだ私たちは、やがて手をつないで夢のような小宇宙を歩き出した。
片桐君はこの先どうなるのだろう。心の傷は癒えるのだろうか。ご両親はどうするのだろう。傷つけてしまったあの女性は大丈夫だろうか。心配事は次々と脳裏をよぎる。そしてまた、私の恋は限りなく絶望的で、明日からのことを思えば果てしなく心細かった。しかし、それでも私は幸せだった。今が、永遠に続けばいい、と強く願った。
片桐君はつないだ手をそっとほどき、優しく私を抱き寄せてくれた。
「先生。ごめんなさい」
彼は泣いていた。
彼に人の心が読める力があることは、いつからか気づいていた。それは、もちろんやりにくいことだったが、別に気味が悪いとも不愉快だとも思わなかった。
しかし、受け付けない人が多いだろうということも容易に理解できる。自分を守るため、彼がその力をずっと隠し通して生きてきた苦労はいかばかりだったか。初めて人と違う「力」があることに思い当たったとき、どんなに怯えたことだろう。まだとても幼い日のことだったはずだ。
彼の母親が、そんな特殊な一面を持つ彼のことを、どのように庇い育ててきたのか、凡人で子どもを産んだこともない私には、とても想像が及ばない。ただ、多分その「力」があるが故、母の愛情や哀しさは、幼い日から彼にダイレクトに届いていたのだろうと思う。
そんな母と子の結びつきの深さは、昨日今日彼を愛し始めた私に太刀打ちできるはずもない。私は無力感を抱きながらも、こうして悪あがきをしている、それはわかっていた。もちろん、片桐君はお見通しだっただろう。本当に、なんて格好悪いんだ、私は。
もう、きっと、会えなくなる。だから、今、彼の体温をしっかり覚えておくんだ。私は片桐君を抱きしめた。私こそ、ごめんね、と心でつぶやきながら。
翌日、二人揃って町に帰ると、すでに大変な騒ぎになっていた。警察での事情説明のとき、私は危うく誘拐犯になるところだったと気がついた。考えてみれば当たり前のことで、私はあまりにも迂闊で愚かだった。そして、正当防衛とはいえ、女性に怪我を負わせ、そのまま逃げてしまった。教師として、社会人として、大人として失格だ。自宅謹慎中に、私は辞表を書いた。
片桐衛は転校し、彼の両親から今後一切息子に近づかぬよう念を押された。「衛を庇ってくれたことには感謝しています」とも言ってはくれたが、この事件が彼らにどれほどのショックを与えたかを思えば無理もないことだろう。「女教師と男子生徒の駆け落ち未遂」の噂はたちまち広がり、長い付き合いだった恋人は去っていった。半ば放心状態でいた私には、それはむしろ心休まることだったのだが。
しかし、3ヶ月後に私は別の町で再び教鞭をとることになる。友人や同僚の温かい配慮と、こんな娘を理解して導いてくれた、先輩教師でもある両親のおかげだ。ただ、甘えてばかりもいられるはずはなく、私は家を出て、遠い町で一人暮らしをすることにした。
◆◆◆
「あれから12年くらいたつんですよね」
「そうね」
「僕の両親、結婚したんですよ」
「本当に?」
「あの奥さんは実家に帰って、他の人と再婚したようです。まあ、あれからいろいろ大変だったんですけど、父も母も今は平和にやっています」
「そうなの。・・・良かった」
「先生、実は僕も、今度結婚するんです」
食事も終わろうとする頃、片桐衛はそう言った。私は、不思議なほど心穏やかに、その言葉を聞いていた。結婚する・・・片桐君が。そうか、そうなんだ。
「どんな女性なんだろう?」
と聞く私に、彼は目を細めて答えた。
「僕が人の心を読めることを、ごく自然に受け入れてくれた人です。元気で、明るくて。先生以外の人で初めて、僕に警戒することを忘れさせてくれた女性なんです」
ああ、本当に良かった。きっと可愛い女性なんだろうな、と私は思った。
「ずっと、あなたに申し訳ないと思っていたのよ」
「どうしてですか?」
「あなたのことが好きで、あなたの苦しみを利用して会おうとしていたから」
「それなら僕のほうが悪い。僕もずっと先生に謝りたかったんです」
「なぜ?」
「先生が僕を想ってくれる気持ちを利用して、自分の話を聞いてもらっていたから」
私たちは寂しく微笑みあった。利用、だなんて、私たちにふさわしい言葉じゃないよね。ほんの数ヶ月だったけど、当時の私たちはお互いを必要としていた。
食後のデザートにレモンのシャーベットが運ばれてきた。
「綺麗なシャーベットね。きらきらしていて宝石みたい」
「あのペンションでも、出してもらいましたよね」
「そうだったかしら。何も覚えていないわ」
あの夏の、あの日の出来事。澄んだ夜の気配とせせらぎと、無数の蛍の光の海。シャーベットを掬ったスプーンを口元に近づけると、あの夜の微風がまたそよいだように感じた。あのとき、どれぐらいの時間、私たちは抱きしめ合っていただろう。
少し肌寒くなって部屋に戻り、震えながら眠った彼の手を、朝まで両手で温めていた私。その手に唇を押し当てるだけで終わらせようとした恋だった。降り注ぐ朝の光の中で、豊かな陰影に彩られた彼の寝顔を見つめていた。みずみずしく、しみじみと美しかった。
「片桐君、私、失恋」
え、と顔を上げ、少し驚いている様子の彼を見て、私は小さく笑って続けた。
「でも、きちんと失恋させてくれてありがとう」
唇に触れた銀のスプーンが冷たい。シャーベットは切なく優しい味がした。
ようやく終わらせることができそうだ。あの頃は唐突に終わったと思っていたけれど、本当は違った。今初めて終わらせることができるのだ。この恋を。
「先生。先生、だけど、もう12年もたっているんですよ」
片桐君は当惑を隠しきれないようだった。私の心を読むことさえ忘れている。
私は不思議な浮遊感を覚えていた。水の底からゆっくりと浮かび上がっていくような感覚。深い眠りから覚めていくような。ノースリーブから伸びる腕の皮膚の、その細胞のひとつひとつが息を取り戻していくようだ。
明日から、私は多分、少しづつ変わっていくだろう。私は心から片桐君に感謝している。そして、心から彼の幸福を願っている。そんな自分が今、嬉しい。
「先生。どうして?」
困ったような顔をして、片桐君が尋ねる。私の言ったことの意味が、いや、思ったことの意味がわからないようだ。
「片桐君は気にしなくていいのよ。個人的な決着なんだと思う」
デザートはレモン・シャーベット。小さな氷の粒。その美しいきらめき。37歳の女の純情は、まだ20代の君にはわからないでしょう、と心の中でニヤリと笑ってみせる。そして私は教えてあげた。教師らしく。
「女ってね。片想いにもちゃんとラストシーンが欲しいのよ」
片桐君はゆっくり微笑んだ。とても自然ないい笑顔だ。よろしい。いい子だ。
「先生。昔と変わらず素敵です。お誕生日、おめでとう」
(前ページへ戻る)
|