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特別企画

 

密航少年Kayの亜米利加県聞記――1900年初頭の北米大陸
Vol. 1

中川吉蔵/光子

イラスト_クラシックカー
作品中のイラストは、中川吉蔵氏の「愉しかった密航人生−1900年初頭の北米大陸」の挿絵を複写して使用。作者は不明だが、中川氏本人の作である可能性もある。
 

 

◆◇◆ プロローグ ◆◇◆

 手許に一冊の古ぼけた本がある。
 「愉しかった密航人生−1900年初頭の北米大陸」中川吉蔵
 今は亡き祖父が若かりし頃をふりかえってまとめた自費出版本である。最近の自費出版本は体裁もそれなり立派なものが多いが、祖父のそれはいささか異なる。B6版、表紙もちょっと厚めの色紙をかぶせただけの簡素な作りだ。タイプ印書された文字は不揃いで読みにくい。いや、それ以上に読みにくいのは祖父の文章だ。読書家の私の妹でさえ、あまりの読みにくさにとうとう読みおおせなかったのである。私は、そんな中、祖父の本のたった一人の読者だった。何年かに一度、思い出したように読み直しては、祖父の異国での生活に思いをはせた。自分には決してそんな無鉄砲なことはできないと思うだけに、血のつながった祖父の冒険は誇らしく感じられた。
 祖父が日本を飛び出したのが1904年。あとわずかで一世紀が経つわけだ。このまま私の元で眠らせておくのもしのびない。この場をお借りしてさまざまな方に読んでいただこうと思い立った。文章には読みやすくなるよう手を加えてはいるが、私には祖父の書いていない行間を読みとる術がない。もちろん祖父に確認することもできない。私の加筆訂正で事実を違えてしまっている可能性もあることを最初にお断りしておきたい。

中川光子

 

第一章 ビクトリア上陸

 

●十七歳の旅立ち

 

 明治三十七年の春まだ浅い三月初旬、僕は英国船チコサー号のコック助手として神戸港を出帆した。若干十七歳の僕が密かに日本脱出を企てていることを、船中の誰も知らなかった。

 

 僕は郷里の高等小学校を出た後、父親の知り合いの回漕問屋の番頭山根氏の家に下宿して中学校に通っていた。山根氏の住まいは神戸の湊川神社の裏通りにある。神戸という土地柄のせいか、僕はいつの頃からか海外へ行ってみたいと考えるようになった。中学を休みながらも近所の私立の英学塾に通い、夢は次第にふくらんでいった。

 

 ある夕方、山根氏が僕を散歩に行こうと連れだし、顔なじみらしい料亭に連れて行ってくれた。酒を飲まないので手持ちぶさたにしているうち、これは日頃考えていることを実行に移すいい機会ではという気がしてきた。
 「僕は、ぜひとも英国か米国へ行きたい。何とか行かせてほしい。旅費はこれだけしかない。」
 全財産五十二円を差し出しながら頭を下げた。突然のことで山根氏も驚いたことと思う。しばらく考えていたが、「よし、何とかしよう!」と大きな声で叫んで胸をたたいた。
 「背広一着と靴を買わねばならんね。」
 とつぶやくように言って、後は何も言わずに静かに酒を飲み続けていた。

 

 二週間ほどすると、山根氏が神戸からカナダのビクトリアへ直行する船に乗れるあてがついた、と言う。渡航する前に一度両親や弟妹に会っておこうと思い、滋賀の親元に顔を出した。背広を着て帰った僕を見て、母はどうも変だと感じたようだが特に何も尋ねなかった。僕も「しばらく帰らないから、体に気を付けて仲良くするように」とだけ母と弟妹に告げた。ひとり父親には海外へ行くことに決めたと打ち明けたが、父は「そうか。」と言っただけだった。
 翌朝早く、神戸へ帰るために停車場へ行った。父は一人で僕を送ってきてくれたが、道中は何も言わなかった。そしていよいよ発車という段になったとき、柵の外から一声「元気で行け!!」と怒鳴った。父なりの激励である。
 僕の実家は旧い家柄の農家で、父は豪胆でよく近郷のまとめ役を頼まれていた。心中で「文明開化の時代に百姓をしていたところで、どうなるものでもない」と考えていたらしいことは子供心にも感じていた。しかし曲がりなりにも跡取り息子の僕が日本を出奔しようというこのときのことを思うと、僕の親父はよほど腹が据わっていたと今でも感服する。

 

 翌日はいよいよ船に乗り込んだ。船は英国船チコサー号で、日本人船員はコック一人とコック助手兼ボーイ二人。そのうちの一人が僕である。
 乗客は、家族連れ一組、アメリカに帰る再渡米組が数人、後は写真見合いによる呼び寄せ結婚の若い女性客だった。この女性達は、まだ見ぬ夫君の写真をいつも眺めては頬を紅潮させたり不安がったりしていた。そのうちの幾人かは上陸したら訪ねるようにと所書きをくれた。いずれもシアトル、ポートランド、サンフランシスコ、ロサンゼルスなどの大都市だったが、後でそれは日本人経営の大商店でただの連絡先に過ぎないことがわかった。彼女たちの結婚相手はほとんどがそこから何十マイルも離れた奥地の農場で働いていたのであるが、そのときはそんなこととは想像もつかない。
 船は神戸港を出てアラスカ近くの沖合を南下し、十八日目にシアトルに近い英領ビクトリア港に着いた。
 船が桟橋に横付けされると、そこへ写真結婚の新郎が大勢迎えに来ていた。船の方でも花嫁衣装に着替えた新婦が写真片手に目指す相手を探そうと躍起になっている。しかし写真の方は散々修正されて服装も立派な服を着こんでいるのに対し、現実の新郎は山奥の農園で働いている無骨な男達。もちろん新婦たちの写真も修正を施されているので、双方おいそれとは判別できない。なかにはお互いに失望した者同志をなだめるのを商売にしている者もいて、大騒ぎであった。

 

●夜の闇にまぎれて

 

イラスト_脱出

 皆がにぎやかに一騒動を演じて上陸した後は急に静かになった。チコサー号の碇泊期間は一週間。僕は目立たないようにふるまいながら上陸の機会をうかがっていた。
 ビクトリア入港三日目。今夜こそ決行しようと靴をはき、丸首セーターにズボンのままでベッドにもぐり込んだ。
 真夜中過ぎ、僕は足音をしのばせて甲板に出た。人影はない。クレーンの脚下から桟橋まで、船から下ろす荷物が海中に落ちるのを防ぐために太い網が張ってある。これを伝って桟橋まで一気におり、初めて四方を見回した。異常なし。それからアークライトの下を倉庫の軒に沿って、後も見ずに急ぎ足で歩いた。税関の門を出ると大通りだった。何のあてもなく左に折れて、板張りの道を急ぎ足で歩く。
 しばらく行くと夜も明けてきたが霧が深く立ちこめていたのが幸いした。
 六時頃だったと思う、霧の中から自転車に乗った大柄な男が現れ、目の前で自転車を停めた。
 「君は日本人か。」そう、日本語で聞いてきた。
 僕はびっくりしながら、「そうだ」といった。
 「英国船から逃げ出したのは君か。今船では大騒ぎだ。町中探し回っている。見つかれば船に連れ戻されて監禁されるぞ。僕についてこい。」

 

 その人の住む下宿屋に着いてから僕は、
 「着の身着のままで金は一銭もなく、英語も話せない。しかし外国を知りたい一心で日本を飛び出したのだ。」と説明した。
 考えてみれば無鉄砲極まりない話だが、その日本人は僕の頼みを聞き入れて、しばらくの間見つからないようにとかくまってくれた。もしこの時この人に会わなかったら、いずれ警察に連行されて船に連れ戻され、日本の警察へ引き渡されていたに違いない。最初に会った人が親切な日本人であったことを深く感謝せずにはいられなかった。
 一週間ほどしてから「もう君の逃げ出した船も出航したから安心していい。」と言われた。
 「僕は君をいつまでも置いておきたいが、船から逃げた君が、いつまでもこの港町にいるのはよくないだろう。僕の友人三人がナナイモ市でいっしょに住んでいるので問い合わせたら、ぜひ君を引き取って世話したいと言っている。僕も彼らになら安心して君を預けられる。大きくなったら、必ず訪ねて来たまえ。その時には、きっとこの港町を案内しよう。」
 そしてまた、こうも語ってくれた。
 「僕は日本を出てからもう二十年ばかりになる。日本には両親も弟もいるが、もう長らく手紙一本出していない。金も貯まらず、偉い人間にもなれそうもない。ここはいつも春のような気候が続き、一日仕事をすれば一週間は遊んで暮らせ、呑気に過ごしているうちに帰国の機会をなくしてしまったんだ。君は僕のような落伍者にならないでくれ。」
 同じような忠告を、僕はこの先何人もの日本人から聞くことになる。当時アメリカ大陸に渡っていた日本人の多くが、同じ思いを抱えていたに違いない。少年だった僕に、彼らは自らの果たせなかった思いを託したのだろう。
 何はともあれ、こうして僕は大陸での第一歩を踏み出したのである。

(→Vol. 2)

 

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