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特別企画

 

密航少年Kayの亜米利加県聞記――1900年初頭の北米大陸
Vol. 4

中川吉蔵/光子
 

 

第四章 シアトルの雨季

 

●シアトル第一日目

 

 シアトルに着いた時、僕のポケットの中にあったのはわずか十ドルだった。知人も友人もいないこの町で、職もなく、これから先どのくらいの間生活していけるだろうか、と思うと不安でならない。ともかく食べるものと寝る所の確保が問題だ。

 

 最初に訪れたのは日本人経営の飯屋だった。かねてからシアトルの日本人飯屋は牛肉と豆腐が第一、という評判を聞いていたので早速それを注文する。
 程なく牛肉と玉葱と豆腐の煮込みを山盛りにした大皿が運ばれてきた。ご飯もおおきなおひつで出されて好きなだけ食べ放題だという。これで代金はたったの10セントだ。なるほど、これなら美味しくて世界一安いかもしれない。

 

 牛飯屋を出てから今度は教会を尋ねた。
 牧師さんに「僕は今、バンクーバーから来たばかりなんですが、M・E教会の鏑木先生から、シアトルへ行ったら訪ねるように言われたのでお訪ねしました。」というと非常に喜んでくれて、「教会にはあなたの泊まるところもあるから安心していなさい。そして、土地に慣れたら少しずつでも働きながら勉強しなさい。」と地下室に案内してくれた。そこはベッドが二十ほど並んだきりの簡素な部屋だったが宿泊料は、一泊十五セントと格安だった。
 こうして食べるものと寝る所のあてはできた。僕は満足して眠りに着いた。

 

●雨季の桂庵通い

 

 いよいよシアトルに雨季がやってきた。緯度は日本の北海道と同じとのことだが、大陸のせいか、雪ではなくぶちまけるような大雨が毎日のように降る。
 その土砂降りの中を、僕は毎朝六軒ある日本人の桂庵に通った。
 桂庵というのは、私設職業紹介所である。昔の言葉で言うところの「口入れ屋」だ。桂庵は、毎日求人側の申込みを受けて、駅の待合室のようなベンチを置いた土間の黒板に、コック三名、ボーイ一名、皿洗い二名、というように書いておく。求職者はこの中から自分のやりたい仕事を見つけると、求人条件などを聞いて申し込めばよいわけである。

 

 僕の桂庵まわりは早い。黒板の求人を一渡り見ても、これなら自分で出来るという自信のある仕事が何もないからだ。桂庵の方でも「この仕事はどうか」とか「ここへ行ってみては」などと言ってくれるわけでもない。
  桂庵を一回りして十一時頃には例の飯屋に行って十セントの牛飯をたらふく食べ、その後近くのルーミングハウスに立ち寄る。
 ここは食事なしの安ホテルで、一階はパーラーになっており、まんなかに大きなストーブがいつも赤々と燃えていた。

 

 このパーラーで靴を脱ぎ、靴下をストーブで乾かすのが僕の日課だった。僕の靴は神戸を出るとき買った上等の靴だったが、既に三年が立ち、いつのまにか底がすりへり、両方とも大きな穴が空いていた。土砂降りの中を歩くと、二秒とたたないうちに靴の中は河の中を渡ったようにびしょぬれになって、気持ち悪いことこの上ない。少しの間でも乾いたのをはきたいと三、四十分もかかって靴下を乾かすのだが、再び靴を履いて表に出た途端、もうびしょぬれだ。雨の時には靴の上につけるオーバーシューズも一ドル五十セントぐらいで売っているのを知ってはいるが、今はその金すら出す勇気もなかった。

 

 ある日、いつもの通り僕がストーブで靴下を乾かしていると、ここのハウスのマネージャーらしい男が側に来て、「ヤングボーイ、僕は君が毎日同じ事をしているのを見ているが、君の靴の底には穴があいていないかね?」
と心配そうに聞いた。
 自分の靴に穴の空いていることは自分が誰よりもよく知っている。しかし何食わぬ顔で「そうかも知れないな」といって出てきたが、その時の恥ずかしさは忘れられない。もう明日からは行かれない、と思った。

 

●二十歳の決心

 

 翌日、シアトルの波止場に日本船が来たと聞いたので、早速出かけていったが、日本人は一人も見あたらなかった。別に日本に帰りたいという気持ちはなかったが、日本船を見ていると日本の国土を見るような懐かしさがこみあげてきて、しばらくじっと船を眺めていた。

 

 波止場で一ドル出して靴を修理した。大体米国人は、靴が傷むと捨てる習慣なので、靴の修理屋はあまりいない。しかし、波止場の荷役のような荒仕事をするものはそうもいかないので、日本の駅前の靴磨きのように、その場で修理してくれる靴屋があったのだ。
 これでどうやら水が浸みなくなった。靴下のぬれないのがこんなに気持ちのよいものだったろうかと今さらのように何度も足を眺めた。気持ちもいくらか落ち着き、初めて勉強しようという気持ちも出てきて、桂庵めぐりはしばらくやめて教会での勉強に精進することにした。

 

 この教会の学校は、昼は午後一時半から四時半まで、夜学の方は、午後七時半から九時までで、米国人の先生二人と日本人の先生二人がいて、土曜は休み、日曜は朝九時から午後一時まで日曜学校があった。日曜学校は聖書の講義で、もちろん英語である。

 

 何回めかの日曜日に、愉快な若い二人の日本人がやってきた。早速友だちになって話しているうちに、「僕らは今病院に住み込みで雑役の仕事をしているんだ。近く一人辞めるから、君代わりに働かないか」という話になった。

 

 病院の僕らの部屋は、広くて明るく清潔で風通しもよく、ベッドもスプリングがよくきいていた。椅子やテーブルもそろっていて、教会の地下室とは比べ物にならない。しかも洗濯は病院でいっさいしてくれるので、シーツもいつも真っ白だし下着を洗う心配もない。
 こんな結構な部屋を与えられて、仕事は思ったよりやさしく、食事付き三十ドルだ。米国へ来てからの数週間、ポケットの僅かの金が頼りで、食うことの心配をし、毎日雨の中を敗れ靴で桂庵通いをしていたことを思うと、ここは極楽のように思えた。
 それにしても、毎日桂庵通いをしていたときは全く仕事が見つからなかったのに、勉強に専念しようかと思ったところに仕事が見つかる。おもしろいものだなと思った。

 

 その頃、僕は満二十歳になった。先輩二人が「君は今年から徴兵検査猶予願いを出すのだ」というので、領事館に行って証明を貰って日本に送った。これで僕もいよいよ一人前だなと思うとうれしくもあったが責任も感じ、これから大いに努力しなければならないと考えた。

 

 努力といえば、僕は一時はハイスクールの夜学へ通っていた。機械関係に興味があり、知識と技術を身につけようと考えたのである。しかし専門的な学科はないし、その程度も日本の中学校レベルなのでだんだんにつまらなくなり、いつか足が遠のいていた。気が付けばシアトルに来てもう四、五ヶ月経つ。今の生活はなかなか楽しく、先輩も親切だが、このまま平穏無事に過ごす気にはなれなかった。
 上陸から今日までのさまざまの苦労には、他国の社会で生活することの生やさしいものではないことを教えられた。その反面どんなときでも希望を捨てずに努力すれば、何らかの道は開かれるものであるという自信らしきものも与えられた。そのせいかどうかわからないが、少し生活が落ち着いてくると、無性に別の地へ行きたくなるのである。これはもう性分というものだろう。

 

 先輩に「ここを辞めて、少し変わったところへ行ってみたい」と言うと、引き留められはしたが最後には「無理に引き留めてもよくないだろうな。しかし困ったときがあったらいつでも戻ってきたまえ。いつ帰ってきても何とかしてやるからな。」と言ってくれた。勝手に出ていこうとする僕にこんな思いやりのある言葉を贈ってくれたことに、深く感激した。
 行き先はオレゴン州のポートランドに決めた。ここならばシアトルから船でも十時間あまりで、港には日本船もしばしば寄港する。シアトルより少し小さい程度の都市なので、仕事も何とかあるだろう。それにもし困ったことがあったら、先輩の言葉通りすぐ戻ってこられる距離である。
 そう決心すると、僕の思いははやポートランドに向けて飛んでいた。

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