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よみたい!ネット
エッセイ

 


第1回 魂の祖国 ―プロローグにかえて―

佐々木ハシチウォヴィッチ申子
 

 


 人の国籍は、その人の両親の国籍、または生まれた国で決まってしまう。でも、それとは別に、精神の、心のもっと奥深いところにある魂の国籍があったとしたら・・・。それは実際の国籍とは全く違う、まだ一度も行ったことのない国だったりするのかもしれない。もし、本当に魂の国籍なんてものがあるのだとしたら・・・。私の魂の国籍は、ポーランドなのかもしれない・・・。

 

 初めてポーランドと出逢ったのは、転職して1年も経たない1988年の秋。その頃、私は、昼は会社で仕事をし、夜は大学の社会学部の4年生だった。卒業を前にし、大学で最も興味のあったテーマ、「東ヨーロッパ」をこの目で見てみたい、という好奇心から東欧に行こうと思った。東ヨーロッパとはいうものの、私の興味の対象は、東西ドイツの分割だった。そう、その時は、まだ東欧はソ連の傘の下にあったのだ。会社を3週間休み、一人でリュックを背負って出かけた。

 

 出発前、友達やその頃のボーイフレンドに、一緒に行こうと誘ったが、未知の国で、なんか恐そう、と言ってだれも行きたがらなかった。逆に、内心私もそれを望んでいた。もう一度、静かに自分を見つめなおしたかったし、何か新たな発見がそうすることで、得られるような気がしたのだ。

 

 結局行ったのは、西ドイツ、東ドイツ、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、オーストリアの6カ国だった。行くまでは、この中で最も興味の薄かった国がポーランドだった。旅の途中、ドイツで出会った人々に、ポーランドで身ぐるみはがれるように全て盗まれた、とか、あの国は女の子一人で行くようなところではない、などと脅かされもした。特にきれいなわけでもないし、危ない思いをしてまで行く国ではない、とも。でも、当時、ドイツに興味を持っていた私は、どうしても一度アウシュビッツの強制収容所を見てみたかった。もし、アウシュビッツがポーランドではなく、ドイツにあったとしたら、決してポーランドに行くことはなかっただろう。しかし、アウシュビッツを見るには、ポーランドに入るしかなかったのだ。そういうわけで、仕方なく、決死の覚悟でポーランドに行こうと決めた。

 

 確かに、みんなが言っていたように、ポーランドは特にきれいな国ではなかった。美しさから言えば、チェコやハンガリーの方が数段上のような気がした。多くの人に助けられて泊まるところを見つけたり、アウシュビッツに行くバスの切符を買ったりできたのは確かだが、ほかの国でも、一人旅の私にはみんなとても親切だった。ポーランドに滞在した3日間、毎日どんよりと曇っており、天気も悪く、全体的に暗いイメージだった。また、プラハに行く切符を買うのに、国営旅行社で4時間も行列に並んで待たなくてはならなかった。その上、ほかの東欧諸国に比べ、英語ができる人はほとんど皆無に近く、コミュニケーションをとるのにも非常に苦労した。

 

 どう考えても、取り立ててよいところがあった、というわけでもなかったのに、なぜか私は、ポーランドに吸い込まれるような魅力を感じた。行った初日から、クラクフの中央広場を散歩したその時から、「この国に住んでみたい」いや、「住まなくてはいけない」と思ったほどだ。もしかしたらそう感じた時から、この国について知りたい、という欲求と共に、知る努力を、無意識のうちにはじめていたのかもしれない。

 

 私は、国営旅行社で、たった1枚の切符を買うのに、4時間も待たされて、平静でいられるほど気長な性格では決してない。むしろ短気な方だ。なのに、なぜこのとき平静でいられたのか。待っている間の人々の行動、表情を見ることで、ポーランド人についてことばで説明されるより、もっと多くのことを感じ取ることができ、それがとても興味深かったからかもしれない。

 

 国営旅行社は、中央広場にあった。私がそこに着いたときには、すでに長い行列ができていた。新聞や本を読んでいる人もいれば、一緒に並んでいる人と話をしている人もいた。しばらくして、男の人が入ってきた。彼は長い行列を見て、前の方に割り込もうとした。すると、それを見た人々は、いっせいにその人を非難し始めた。勇気のあるものがただ一人で声をあげるのではなく、列に並んでいた人々、みんなが、口々に非難するのだ。最初は反撃していたその男の人も、みんなからの非難の嵐にあい、しぶしぶと列の最後部に落ち着いた。少しして、また割り込む人が出てきた。その時、なんと、さっきみんなから非難の的にされていたあの男の人が、率先して、割り込む人を非難し始め、その後も、その人は行列の整理員のような役目を果たすようになった。

 

 ここには、人々の間での暗黙の了解が、多く存在しているように思えた。割り込みに関してはとても厳しい人々も、妊婦や小さい子連れのお母さん、足の悪いおばあさんなどが来たら、すんなりと列の前へ行くことを許す。誰もこれに対して文句を言わない。また、ずっと立っているのがつらいお年寄りは、自分の前後の人にことわって、外のベンチで待つ。長時間待つ間に、用を足したくなった人や、お腹のすいた人も同じだ。前後の人にことわり、外で用を足してまた戻ってくる。文書化された規則を守るよりずっと人間的だ。

 

 窓口で仕事をしている人はどうかといえば、ガラスの向こう側のことなんて、どこ吹く風。一人の切符を手配するのに15分から20分も要していた。どこ行きの何時の電車かを聞き、駅に電話をかけて空席を確認する。この電話がまた全然つながらないのだ。コーヒーを飲みながら、気長にダイヤルを回す。そこにはあせりや申し訳ないといった表情は全くなく、同僚と時々笑顔で話をしながら、いつ通じるかもわからない電話を、延々とかけ続けるのだ。休憩の時間が来ると、何人並んでいようがお構いなしで、なんの断りもなく、お客の目の前で、ピシャリと窓口を閉め、後ろのテーブルで、同僚と楽しく会話をしながら、お菓子を食べたり、コーヒーを飲んだりしている。並んでいる人々は、一瞬それに腹を立てるが、すぐにあきらめ、また気長に待つ。

 

 人生のどこかで私たちが置き忘れてきた、人間の本質の中にある熱いものや、あまりにあからさますぎるほどの率直さが、ここにはまだ生きているような気がした。自分のことだけでなく、人のことに対しても熱くなれる人々。個を保ち、時には強すぎるまでに自己主張をしながらも、ある部分では人を思いやり、人に深く関わる。そして、それがまた自然のこととして、とらえられている社会。そんなことを感じながら、4時間はあっという間に過ぎていったのだ。

 

 ポーランドに対する興味は、帰国後も変わらないどころか、いよいよ膨らんできた。それから2年半、私は、全ての自由になるお金を、ポーランド行きのために貯金し、毎年ポーランドに行った。そして、4回目にポーランドに行ったときは、住むためだった。

 

 どうしても、この国の何が私をそんなに惹き付けるのか知りたかった。どうやったらその答えが見出せるのか、はっきりわからなかったが、住むことで、何かが見えてくるのではないか、と思った。そして、結局、2年の予定で行ったポーランドに、私は4年7ヶ月も住むことになった。多くのポーランド人に助けられ、多くのポーランド人と言い争い、多くのポーランド人と生活を共にし、多くのポーランド人に教えられた。

 

 住んでみると確かに、旅行でポーランドに行っていたときとは違い、いやな思いもしたし、心臓が爆発するのではないか、と思うくらい怒ったこともあった。だが、そういうときでさえ、ポーランドを逃げ出して日本に帰りたい、とは思わなかった。人が誰かを好きになり、結婚したいと思うとき、その相手の長所も短所も、全てひっくるめて受け入れてしまうのと同じように、私はポーランドを受け入れることができた。

 

 そこまでポーランドに惹かれる、最大の魅力は、などと多くの人にきかれた。答えようがなかった。一言では語れない、魅力に順位をつけたり、箇条書きにしたりできないほどの魅力がある、とでも言うしかないだろう。でも、私がポーランドで体験したことや感じたことを、もっと詳しく書きすすめていくことで、一言では表せないポーランドの魅力を、読者の人が自然に感じ取ることができ、私自身も、そこから新たに、何かを発見できるのではないか、と思う。また、そうなれば良いとも。

 

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