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よみたい!ネット
エッセイ

 

ポーランド・ポルスカ
第3回 バベルの塔の内側

佐々木ハシチウォヴィッチ申子
 

 


 ポーランドに行った当初の私のポーランド語といえば、全くお粗末なものだった。行く前の2年間、週1回のポーランド語の講座に通ったにもかかわらず、かろうじてアルファベットが読め、挨拶が言える程度。ポーランド語はとっても難解なことばで、文法はひどく複雑。発音も子音が多く、母音が多い日本語を話している者にとっては、とても難しい、ということだけはわかった。ただ、クラスに通い、ポーランド人の先生が、日本語で話してくれるポーランドの話を聞くのが楽しみだった。日本人の先生の文法の授業では、ただひたすら「指されませんように」と願って、小さくなっていた。

 

 そんなだったので、クラスでも劣等生だった私が、ポーランド行きを決めたとき、先生は「えっ、あなたが行くんですか。まあ、行ったら何とかなるもんなんでしょうね。」と言った。あまりにあからさまなこのことばに、ショックを受ける、というより、「ま、そう思われても仕方がないか」と、妙に納得してしまった。それでも、推薦状を書いてもらえたのは、ありがたかった。ただ、推薦状に「ポーランド語を1年間勉強され」とあり、読みながら、1年勉強した、としか思えないぐらい、私のポーランド語はひどいんだ、と改めて感じた。

 

 ポーランドに行ったら一からやり直して勉強を始める、と意気込んでいたが、意気込みよりも、ことばなしでの生活の不自由さに、まいってしまい、何が何でも早くことばを覚えなくては、というのが本音だった。だからウッチについてから授業が始まるまでの、たった1週間が、ひどく長く感じられた。

 

 ウッチ大学付属外国人のためのポーランド語学校は、寮から歩いて10分ほどのところにあった。寮が「ZOO」なら、この学校は「バベルの塔」と呼ばれているらしかった。この縦長の建物の中で、いろんな言語が飛び交っている、というところからこの名前がつけられたらしい。
 実際、初日に自分のクラスに入って、その顔ぶれを見てびっくりした。まさに多国籍。タンザニア人、ガーナ人、アルゼンチン人、ベンガル人、パレスチナ人、ヨルダン人・・・これまで、接することのなかった国の人ばかりだった。みんな、それぞれ分けのわからないことばで話している。英語を知っていれば、何とかなる、と思っていたのは甘く、ここには「共通語」なんてものは存在しなかった。

 

 クラスは1年後に進む大学の専攻によって分けられていた。歴史をやりたいと思っていた私は、人文系のクラスだった。人文系のクラスでは、最初の3ヶ月はポーランド語のみ、その後、ポーランド史の授業が加わり、6ヵ月後には地理、哲学の授業も入ってくることになっていた。もちろん、講義はすべてポーランド語。
 
共通言語もないのに、どうやってポーランド語を習うことができるのだろう、という単純な疑問がわいてきた。答えは簡単。ポーランド語をポーランド語で習い、共通語もポーランド語になる、ということだった。

 

 ポーランド語のポの字も知らない人に、ポーランド語だけでポーランド語を教える。これは想像を絶するほどの忍耐力と、集中力が要求される。こんなことが本当に可能なのだろうか、と思った。でも、そんなことを考えていたのは、ほんの束の間で、授業が始まってしまうと、まるで流れの速い川で、投げ出されないよう、ボートにつかまっているような状態で、とにかく必死で毎日の課題をこなしていった。

 

 私のクラス担任のヨランタは、いろんな意味でとても魅力的な人だった。年のころは私とほとんど変わらないぐらいだと思う。はじめはゆっくりポーランド語に慣らし、少しずつスピードを上げていく。単語も毎日新しいものを増やしていき、教えた単語と文法を巧みに使って、次のことを説明する。どの単語を教えたかは、すべて頭の中に記録されており、習った単語の意味を尋ねると、「これは、もうやった単語です」と言われる。毎日、新しく出てくる10〜20の単語を覚えていかない限り、次に進むこともできないし、その日の授業は無意味なものになる。
 高校を出たばかりの、若いクラスメイトに混じって、私も錆びきった記憶力に、やすりをかけた。宿題も、膨大で、すべてやり終えると、次の日になっていた、ということもしょっちゅうだった。

 

 こんなに大変だったので、もちろん脱落者も多かった。最初から最後まで同じクラスで修了したのは、ほんの一握りだった。上のクラスから降りてきた者、片親がポーランド人で、最初からポーランド語はある程度話せた者、前の年に落第し、私たちのクラスに加わった者、などが途中で加わったので、クラスの人数そのものは常に12、3人だったが、その内、最初からいたのは3、4人だけだった。
 毎日、寮と学校の往復だけで、ちょっと町をブラリ、ということも滅多になかった。ウッチが、特に見所のない街だということに感謝した。もし、文化の宝庫、クラクフなどに住んでいたとしたら、ただひたすら勉強に明け暮れるなんて、もったいなくて、できなかったかもしれない。

 

 日本で「勉強」というと、なんとなく「努力」、「忍耐」などということばが思い浮かび、なにか苦しいもの、でもやり遂げなくてはならないもの、というイメージを持つのは、私だけだろうか。大学受験にしろ、語学の習得にしろ、努力し、苦しみを乗り越えて、がんばった者のみが勝ち得る、という風に教えられてきたように思う。
 そして、私はそれが非常に苦手だった。寄り道しながら、興味のあることを楽しんで勉強するのは好きだ。が、AのときはB、CのときはD、というように、型に当てはめ、暗記し、しかも、カリキュラムに沿って、いついつまでにはここまで終わらせる、というやり方は、どうしても肌に合わなかった。興味のあることには、長く時間を取り、興味のないこと、またはすぐに理解できることは、さっさと切り上げる、というやり方だったので、日本の教育システムには、完全に外れてしまい、うまくいかなかった。それで、大学受験も失敗し、英語も、高校までの教育では習得できなかった。

 

 だが、このバベルの塔での勉強は、その辺が違っていた。少しポーランド語で自分の意見が言えるようになったら、様々なテーマについて、議論し合った。だんだん、ことばよりも内容の方に気を取られ、文法がめちゃくちゃになっていくのを、そばでヨランタが訂正する。でも、そんなのお構いなしで、自分の考えを主張する。それぞれ違った文化で育った者のあつまりだったので、考え方も多種多様で、それは面白かった。
 試験の前も、人に隠れて勉強したり、クラスメイトに変なライバル意識を燃やしたり、ということはなかった。お互い自分が理解している部分を教えあい、みんなで疑問点を解決する。テストの前には、たいてい寮の誰かの部屋に行って、一緒に勉強した。
 要はポーランド語を理解し、1年後に大学の授業が受けられるくらいのレベルまで持っていくことが大切なのだ。

 

 授業そのものはかなりきつかったが、「苦しみを耐えて」といった印象はなかった。むしろ、ポーランド語が少しずつできるようになり、いろんなテーマについて、話ができるのがとても面白く、これが言いたいけど、どう言えばいいのだろう、というところから、語彙も文法も広がっていった。みんなの興味を奮い立たせ、議論に没頭させ、なおかつ、文法的な間違いも訂正し、語彙も増やすのがヨランタの役目だった。そして、彼女はその才能に長けていた。

 

 ウッチに来て9ヵ月後、私は辞書を引きながらであれば、ポーランド語の新聞も読め、ポーランド人と普通に会話し、自分の考えも、ポーランド語で言えるようになっていた。9ヶ月前の私にとっては奇跡的なことが現実となっていたのだ。

 

 興味があれば、人は多くのことができる。そして、それは時に、奇跡を呼び起こすことだってある。勉強することに、忍耐も、苦しみも必要ない。むしろ、必要なのは、知識を分け合う寛容さと、もっと知りたい、という好奇心をもつことなのだと思う。このことを立証してくれたのが、バベルの塔での9ヶ月だった。

 

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