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最後にポーランドを訪れたのは、2ヶ月にもならない息子を連れて帰った、1998年の夏だった。4年ぶりのポーランド。日本を発つ前は、久々のポーランド行きに胸が高鳴り、数年ぶりに恋人にでも会うような、妙な緊張感があった。が、今、実際にポーランドに来てみると、4年間のブランクはまるで嘘のよう。その上、外国に来た、という感覚は全くなく、故郷に帰ってきたような気分だ。
2002年6月。久々にポーランドに来て、見たこと、感じたことを、思うままに・・・。
◆◇◆4年の間に変わったこと◆◇◆
○自転車
冬の間は自転車に乗るなんて、とうてい無理なポーランドでは、これまで自転車を見ることは夏でもほとんどなかった。それが、今では街中でも多くの自転車を見かける。公園の中を自転車でさっそうと走る姿は、見ているだけでも気持ちよさそうだが、自転車道が整備されているわけではないので、歩行者にとってはちょっと危険な存在だ。
○ジプシー
以前は、街角のいたるところで物乞いをするジプシーを見かけた。教会の前には必ずいたのに、今はほとんど見かけない。いたとしても、通りで音楽を演奏してお金を稼いでいるジプシーだけ。この4年の間に、なぜいなくなってしまったのか、とても気になる。ヨーロッパでは、愛国主義、民族主義者が増える傾向にあるだけに、ジプシーがいなくなった理由を知りたい。何人かのポーランド人に訊いてみたが、誰も特に気にもとめていなかったみたいで、「昔はそんなにたくさんいたっけ?」という反応だった。
○つるつる坊主
頭をまるでお坊さんのようにつるつるに刈っている人をたくさん見かける。若者だけでなく、中年にも見られる。スキンヘッジかな、と最初は思ったけど、見た感じ、そうでもなさそうなのもたくさんいる。ポーランド人に、あの頭は今のはやりなのか訊いてみた。別にはやりでもないらしい。単に夏で暑くなってきたから?
○ショッピングモール、ハイパーマーケット
私が住んでいた頃のポーランドには、ショッピングモールもハイパーマーケットもなかった。4年前に来たときは、できたばかりのハイパーマーケットが1つ2つあり、まだ物珍しい存在だったのが、今ではいくつもある。以前は日曜日に開いている店がほとんどなく、金曜日に買い物をし忘れ、土・日に食べるものがなくて困ったりしたが、今では土曜日の夜や日曜日に買い物をする姿は当たり前のようになった。
○買い物袋
昔は鞄の中に、必ず買い物袋を入れて持ち歩いたものだった。どこに行っても、お店で袋をくれるということはほとんどなく、買い物袋を忘れたときは、本当に困った。今はどこでも袋に入れてくれる。それがまるで当たり前のようになってきている。昔、不便だと思っていたこの買い物袋の携帯だが、この習慣がなくなってくると、ゴミを増やす資本主義の請負のような気がして、昔が懐かしくなってしまう。
○新興住宅地
いわゆる旧市街と言われるところ、または昔からの繁華街は、多少新しい店ができた程度で、特に目を見張るような変化はない。だが、ちょっと中心街から離れると、昔は森だったところ、荒野だったところに、新しい集合住宅が建ち並び、まるで違う世界に来たようだ。どうもこのギャップに慣れない。自分が住んでいた頃のクラクフを思い起こし、感傷的になっているところを、ブルドーザーで掘り返されるような不快さを感じてしまう。
このように変わった部分もあるけれど、ポーランド人そのものは、それほど変わったように見えない。
市場でジャガイモの量り売りを買うのに、「大きめのを入れて」と頼むと、「そういうわけにはいかないよ。そんなことしたら、あとで小さいのばかり残ってしまうじゃない。」という素っ気ない返事。
野菜や果物を売る市場で、アコーデオンを弾きながらロシア語の歌を歌い、お金を稼ぐロシア人。
ほかにたくさんポーランド人がいるにもかかわらず、見るからに外国人の私に、ポーランド語で道を尋ねてくるおばあさん。
バスに乗っている人の話に口を挟んだり、便乗したりするポーランド人。
昔ながらの官僚主義で、頼んだことが期日にできていることは、まずない。また、それに対して、すまないという気持ちもなく、逆に、何でこんな面倒なことを頼むの、という態度。それが、花束やチョコレートなどをプレゼントすることで、コロッと態度も機嫌も変わってしまうところ。
あの人なつっこさ、おせっかいなところ、ちょっと身勝手なところ、でもどこか滑稽で、文句を言いながらもつい許してしまえるあの人柄は、私が住んでいた頃と全く変わっていない。それが何となく嬉しく、そういう光景を見ると、なぜかほっとする。
◆◇◆クラクフ◆◇◆
クラクフは、私が最初に訪れた街で、また、一番長く住んだ街でもある。歩いているだけで、いろいろな思い出がよみがえってくる。街全体に、私の人生の一角が、スッポリ入っているという感じだ。目に入るものすべてが、気持ちを熱くする。初めてポーランドに来たときに、中央広場を歩きながら「この国に住んでみたい」と思ったのと同じように、今回も「やっぱりこの国にいつかまた戻ってきたい」と思った。
何がそういう思いにさせるのかわからない。街の雰囲気が、街でありながらどこかのどかで、しかも歴史と文化には今でも生きている躍動感のようなものも存在する。ことばでは、すべて語り尽くすことができない、ここに来て感じ取らなくてはわからないような魅力が、この街にはあるような気がする。再びポーランドに住むとしたら、クラクフ以外の街は考えられない、と改めて思った。
◆◇◆原点と先行き◆◇◆
ある意味で、ポーランドで過ごした5年間は、私の人生の原点だったとも言える。それまで見え隠れしていた自分の興味が、ここで明確になっていき、より深まった。人生における最愛の人とも、ここで出会った。自然な形の自分の姿をここで見ることができ、自然でいられることの楽しさも、初めてここで感じることができた。
6年前に帰国してからというもの、自分の本当にやりたいことと、目の前に突きつけられている現実との狭間で、進みたい道が闇に隠れ、どちらに進めばよいのか、また、どうやってこの闇を取り除いていけば、道が見えてくるのか、わからなくなってきていた。今回、ポーランドに来ることで、私の原点に戻ることで、何か新たな発見があるのではないか、道が少しでも見えてくるのではないか、と少なからず期待していた。
クラクフに来て、昔の友達や先生に会ったり、本屋を見て回ったりしているうちに、自分が自分のところに戻って行くような気がした。本屋でおもしろそうな本を見つけ、「これも読みたい」、「あれも読んでみたい」と手にとってページをめくりながら、内から興味がふくれあがり、気持ちが高ぶっていくのを感じた。「あぁこの気持ちだ!」と思った。
日本にいる間忘れかけていた、嬉しい感動だった。私の興味はここにあり、この興味に関わっていられることが、私にとってはとても大切だし幸せなことなんだ、と改めて感じ、道が開けてきたような気さえした。
そんなとき、昔の指導教官に会った。私の家族と、彼と彼の奥さんと一緒に食事をした。
彼の奥さんはとても積極的な元気な人で、会うといきなり「ほら、あなた、申子にあの話をしてよ」と催促する。「あの話」というのは、私が修士をとったヤギエウォ大学で博士号をとらないか、という話だったのだ。
この思いがけない話に、嬉しくてことばを失った。修士を終え、ポーランドを発ったとき、博士まで進む友達を見て、「私も・・・」という気持ちもあった。でも、そのとき夫の日本への奨学金も決まっていたし、私のお金も底をついていたので、当然のごとくあきらめた。
日本に戻ってから、大学の時の指導教官に日本で博士課程に進まないか、と勧められた。でも、日本で博士課程に行くにはお金もかかるし、まずは生活が第一。その後、子供も生まれ、完全に博士への道は絶たれた。少なくとも私はそう思っていた。
それが、ここに来てまた、閉ざされていたはずの道が見えてきたのだ。べつに博士をとったからといって、何が変わるわけでもないかもしれない。「40を前にして、博士なんて。もっと将来性のあることを考えた方がいいんじゃない?」というのが世間一般の考え方かもしれない。
でも、自分にとって何が幸せなんだろう、と考えたとき、私にとっての幸せは、財産でも、安定した生活でも、キャリアでもない。好きなことに打ち込め、それを深めていくときに得られる何とも言えない感動、心が躍るような気持ち、自分の興味のある本を読み、それについて書いていくこと、そして愛する家族と一緒にいること・・・。それが、私にとって最高の幸せなのではないか、と改めて思ったのだ。
修士論文を書いていたときの、自分の興味のあることにとことん深く入っていけるあの喜びを、また味わえる道が広がった。それだけでも、今回ポーランドに来た価値があるように思える。
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