<シリーズ>
天使、なんて呼べない。
第6回
「A.I.」をめぐる午後
柊野ポネ
ひさしぶりに、ひとりで映画館へ足をはこんだ。
いつのころからか、映画はひとりでみるのが好きになった。勤めていた会社をやめて、フリーランスの編集者兼ライターになったころ、映画館で流れるコマーシャルフィルムをあつかう会社からコピーライターの仕事を請けおっていたことがあって、その時はほぼ毎日試写会や映画館をハシゴしていた。仕事自体は映画批評の域までとどかない、肩のこらない新作映画のご案内といった内容だったのだけれど、連日映画をみるということはけっこう体力のいることで、ほかの仕事がたてこんで疲れているときなどもかさなると、試写室で知りあいの顔をみつけても自然とひとり離れて座ることが多くなった。
そのときの習慣があとをひいてか、どーもコドモといっしょに映画館にいくという気がおこらない。映画館というのは、コドモづれで目的がマットウできる、許される場所ではあるんだけれど、ユーガと映画をみにいったことはまだ一度もない。「ポケモン」や「しんちゃん」をだね、あの暗闇の空間のなかで長時間みてすごせられるとは、どーしても思えないんだな。ユーガも。私も。
クラシックの親子コンサートとか、劇団四季のコドモ向けミュージカルなどは、ユーガはけっこうウケてたからね。今年の夏休みは、気もちをきりかえてチャレンジしてみよっか。人生イタルトコロニ学び舎アリ、ナニゴトモ経験ゾ、を、日頃よりコに力説?するワタクシとしては。しかし、やっぱり気が重い。夜ふけのイタリアンバーの存在とともに、ママだけの聖域もほしいんだよね。
ところで本題。みてきた映画は、あの「A.I.」である。
レディースディ(いまは主婦でございますからね。試写会もトンとごぶさたである)につられてふらりとその気になった。だいたいが、超のつく話題作って気おくれしてちょっと乗り遅れるとこがありまして。スタンリー・キューブリックが難航してすすめていた企画をスピルバーグが引き継ぎ、主演はあのハーレイくん、くらいの予備知識しかなかったのだけれど。
いつものスピルバーグ映画とは毛色がちがっているな、とは冒頭からすぐわかった。みおわっての感想としてはおさっしのとーり、「ユーガの母」としてはちょっとツラカッタですね。
(まだこれから映画をみにいかれる方のために物語の詳細はとばしますが)ひとことでいえばいろいろな場面がせつなかった。コドモをもつ母親は、だれもが自分に投影させると思うし、「A.I.」(Artificial
Intelligence=人工知能のことだけど『愛』と読める!)というタイトルでテーマ自体は強く打ちだされているはずなのに、共感できる愛がリアルにつたわってこなかったことへの苛立ちが、映画館をでてからも胸に残った。
主人公の男の子(デイビッドといいます)が手をつなぎたがる場面が多く登場して、そーゆーところはうしろ姿がユーガと単純にダブってしまう。どこへいくにしてもいつもいつも手を握っている私たちのうしろ姿と。街を歩いていて、成人されたお子さんの手をしっかりもって信号待ちをしている年配のおかあさんの姿をみかけたりすると、何十年か先の自分たちを思いやって、つい見つめてしまうがごとく。
全編にわたって、ロボットである彼が人間になりたい、そうしたらママに愛されるから、と訴えかけているのだけれど、私には映画の中のセリフとしてではなく、ユーガの声なき声のように聞こえた。
「いいコになるから、人間のコドモのようにいっしょうけんめいにするから、お願いだからママ、ボクを捨てないで」
と、彼は「母親」にすがりつく。
最近気にいらないこと、自分の思い描いたようにコトが運ばないとき、ユーガはときにキョ―ボーになる。その場でカンシャクをおこして飛び上がり、自分の頭や足をたたき、あろうことかまわりの信頼すべきひとたちにも爪をたてたりする。「ウー、ウー、ウー」となにかを訴えかけながら。
おさまる気配がないとき、私はすがりついてくるユーガの手をふりはらい、自分のことだけを考えようと拒絶の姿勢をみせる。そのときの私が、あのどーしよーもない映画のなかの「母親」と重なる。そして、そのときのユーガの目は、あの場面のデイビッドがみせる必死のまなざしとおなじ。
「ぼくだって、毎日がんばっているじゃないか。いっしょうけんめい『フツーの』コみたいになろうと努力してるじゃないか」
と、叫んでいるとしたら?
話すことばをもたないユーガも、大人になっても愛情をもとめつづけることでしか自分を表現できないのかなあ。でもね、悲しいのは、あなたの本当にいいたいことはママにはよくわからないんだよ。だって、あなたはしゃべってくれないんだもの。
なんかね。
こーゆーことって、ふだんはほとんど考えないんですけどね。1年に1回くらいは(もっといってるよぉ、と陰の声)あるかなぁ。