クロックムッシュはいかが
かなりあ月子
寝入りばなに、暴走族の馬鹿騒ぎが始まったおかげで、すっかり目が冴えてしまった。窓を閉めて寝なさいと、母に言われていたのを思い出す。そうね、もう一人暮しなんだから、マンションの5階ではあるけれど、もっと用心深くしなくては。
ベッドサイドの照明をつけ、部屋を見回した。二人で住んでいた頃は狭く感じたのに、こんなに広い部屋だったっけ。
パトカーのサイレンの音とともに暴走族は行ってしまったようだが、鍵をかけようと窓際に立った。足元の公園から、虫の歌声が登ってくる。遠くに都心の明かりを眺めながら、しばらくその声に聞き入っていた。やっと秋になったのだ。
あの人は元気にしているかしら。
この頃ようやく、そう穏やかに思えるようになった。幸せって簡単に壊されちゃうのねと、虚しく思ったときもあったけれど、本当は簡単なんかじゃなくって、やはり理由はあったし、警告音も鳴っていたのだ。聞こうとしなかっただけで。
春の終わりから、夏の間中のめまぐるしい生活の変化。それ以上にふり回された私の感情。ずっと夫を責める気持ちばかりだった。
でも、こうして秋を迎えて、自分が回復しようとしているのがわかる。自然治癒できる程度の傷だったのかもしれないが、私は素直に今の自分の心を頼もしく思う。明日からもっと本気で仕事を探そう。慰謝料だけで生活していくなんてごめんだ。
危ないかもしれないと思いつつ、私は夜のジョギングに出かけることにした。久しぶりにスウェットの上下を着込み、エレベーターホールに立つ。やがてエレベーターが5階に上がって来た。そしてドアが開いた時、私は思わず叫び声を上げそうなのをかろうじて押さえた。
「どうしたんですか?大丈夫?」
下から上がってきたエレベーターの中には、一人の男が倒れていたのだ。いくつもピアスをし、金色に髪を染めた、まだ20歳前に見える青年だ。怪我をしている。
「すぐに救急車を呼ぶから、待っていて」
そう言って部屋に駆け戻ろうとすると
「待って!」
その若者が私を止めた。
「まずいんだよ。救急車も警察も、呼ばないでくれよ」
「そんなことを言ったって・・・」
大人のすることじゃない、と自分を訝りながら、私は彼に肩を貸し、傷の手当てをするために部屋へ連れ帰ってしまった。何故、そんなことをしたのだろう。結婚するまでは看護婦だったから、反射的に手当てをしなくてはと思ったのだろうか。青年には事情がありそうなのに、常識だからと救急車を呼んでしまう、そういうことが自分の中の無神経なところと思えて、それに逆らったのだろうか。
ソファに寝かせた包帯とバンソウコウだらけの青年を見て、私はなんだかおかしくなり、小さく笑ってしまった。
「今お礼を言おうと思ったのに、笑うなんてひでえなあ」
思ったほど深い傷ではなかった。でも、打撲が気になる。やはり病院に行くべきだ。
「名前は?」
「言わなきゃだめ?」
「なにそれ。指名手配でもされてるの?」
私は少し厳しい口調で言った。そして、厳しく質問を重ねた。
池上章仁。18歳。フリーター。元暴走族。怪我の原因は、昔の仲間との喧嘩だというが、どうやら先刻騒いでいた連中に、下の公園で袋叩きにあったらしい。パトカーのサイレンのおかげで連中は逃げ去り、この程度の傷ですんだのだろう。警察に事情聴取されるのは嫌だから、このマンションのエレベーターに逃げ込んだのだと章仁は言った。