水平線とアップルパイ -1-(つづき)

 新しい家は、父の会社が管理する木造の一軒家で、こざっぱりとした、風通しも日当たりもよい住宅だった。わたしと妹のエリは、着くなり階段を駆け上がり、二階の窓をあけ放った。思ったとおり、そこからは青い青い海が見渡せた。うっとりと、とても満たされたきもちになった。
 そして、わたしは知った。表からは気がつかなかったけれど、すぐ裏手に隣家があるのだ。それは時代がかった白いペンキ塗りの洋館で、庭の木立ちに遮られて、二階の窓からでも全体を見渡すことはできなかった。
 父の話では、昔、どこかの国の外交官が別荘として造り、長い休みのたびにやってきて暮らしていたが、後に人手に渡り、今は日本人の家族が住んでいるとのことだった。

 

 さっそくわたしたちはこの隣人に挨拶に行った。顔を見せたのは、若い女性で、子供のわたしが見ても、本当に誰かのおかあさんとは呼べないくらいあどけない感じだったが、息子と二人でここに住んでいるのだと言った。そのときには、その息子は姿を見せなかった。
 事情がよくわからないまま、わたしたち一家は普通に近所づきあいをしようと試みたが、この女性はあまり表に出たがらない様子だったし、彼女の家に客人が入るのを見ることも少なく、人との接触を避けているようにも思われた。
 それでも母などは、手作りのお菓子のおすそわけだとか言いながら、たびたび隣を訪問していた。
 そして、わたしはといえば、妹のエリを連れて町中を冒険することに没頭していった。
 「ユリ、あまり遠くへ行ってはだめよ」
 母の声を背中に聞きながら、わたしたちは毎日のように外へ飛び出した。

 

 ある日、いつものように朝食後、海岸を散歩していると、エリが帰りたいと言い出した。仕方がないので今来た道を戻ろうとしたが、ふと気が変わって、細い林道を通ってみることにした。
 それは、もしかしたら、誰かの私有地だったのかもしれない。ほんの数十メートルだったのだろうが、子供のわたしたちには長く入り組んだ、そしてちょっぴり怖い、魅力的な道だった。そう、素敵な冒険コースを見つけた思いで、胸がときめいたのを思い出す。
 木漏れ日を浴びて、たんぽぽやシロツメクサがたくさん咲いている道だった。わたしたちは花摘みをしながら歩いていたのだが、やがて前方に、わたしと同じ年ごろの男の子を見つけた。切り株に腰掛けている。彼の方でもこちらに気づき、ひざの上で拳を握りしめて緊張しているのがわかった。

 

 「こんにちは。岬エリです」
 愛想のいい妹のエリが先に声をかけてしまい、わたしは焦った。普段は甘えん坊でちょっとぼんやりしている妹だけど、実はわたしよりずっと勇気があるのだ。この性質は、おとなになっても変わっていない。とにかく、なんて返事をされるか、わたしは怖かった。知らん顔されたら悲しいな。
 「こんにちは」
 でも、男の子は思いがけないくらい優しい顔で微笑んだ。それはもう、とろけそうなくらい、可愛らしい顔だった。
 こんにちは。こんにちは……。なんて素敵な言葉なんだろう。

 

◆◆◆

 

 「もう、俺たちだめかもしれないな」
 なだらかな坂道を登り、海が見えてきたら、急に昨夜の夫の声が聞こえてきてしまった。ただ思い出しただけなのに、心臓のあたりがぎゅっと掴まれたように痛い。痛くてたまらない。
 だめかもしれない。そう、わたしも毎日そう思いながら悶々としていた。でも、まさか夫の方から夫婦の終わりを予告してこようとは思わなかった。
 こんなふうに、これといった特別な理由もないまま、楽しくない、虚しくなる、そんな漠然とした不快感だけを根拠に、人は離婚なんてできるものだろうか。

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