水平線とアップルパイ -3-(つづき)

◆◆◆

 

 夏休みも終わりに近づいたある日、ピアノの調律師だと名乗る人が、片桐家はこのあたりかと我が家の前で母にきいた。母は、横手にある小道を指差し、この奥ですと答えていた。わたしはマモルくんの家で宿題をしようと、玄関で靴を履いていたのだが、外に出ると庭掃除の母に止められた。
 「お隣はお客様だから、後にしなさい」
 マモルくんの家の一階に、黒いグランドピアノがあることは知っていた。けれども、彼も小夜子さんも、それを弾いてはいなかった。あのピアノは誰が弾くんだろう。わたしはふと思った。そばにマモルくんがいれば、思っただけですぐに答えてくれるんだろうな。

 

 「それじゃ、海に行って来る」
 わたしは母にそう言って、表に出ると、エリも飛び出して来た。
 「海ならエリも行くぅ」
 「帽子をかぶって行きなさい。気をつけてね」
 母に見送られて、わたしとエリは海岸に向かった。
 「エリ、あんまり波に近づいちゃだめだよ。危ないから」
 すぐにつないだ手を振りほどいてしまう妹に注意しながら、わたしはさっきの調律師のことを考えていた。ちょっと、怖そうな目をしていたっけ。

 

 「ユリちゃーん」
 マモルくんの声がした。驚いて振り向くと、こちらに向かって彼が駆けて来るところだった。
 「どうしたの?」
 そばに来て息をはずませているマモルくん。目にはなんと、涙が浮かんでいる。
 「あいつはイヤだ。おかあさんを騙そうとしている」
 「ダマス?」
 「とにかく、あいつはダメなんだ。どうしよう」
 ポケットからハンカチを出して、わたしはマモルくんの涙を拭いてあげた。そんなことしかできなかった。どうしていいか、わからなかった。

 

 二学期が始まる前に、マモルくんと小夜子さんは引っ越して行ってしまった。わたしは見送りに出なかった。泣き腫らした目を見られたくないきもちもあったが、前の晩、あの門の下でマモルくんと会い、聞かされた話が悲しくて、とても衝撃を受けていて、混乱したままだったのだ。

 

◆◆◆

 

 ユリちゃんはもう、知っているよね。僕はまわりの人の心が見えちゃうんだよ。それって、すごくおかしなことなんだってね。きもちが悪いことなんだってね。でも、そういうことを珍しがって調べたがる人がいて、僕を守るためにおとうさんは僕を隠したんだって、おかあさんが言っていたよ。
 僕は幼稚園にも行ってないんだ。だから、学校で友達ができるかどうか、すごく心配だったんだけど、ユリちゃんがいてくれたから、なんだかすごくうまくいったし、楽しかったんだ。ユリちゃんのおかげだって、おかあさんも言っていたよ。ありがとうね、ユリちゃん。
 だけど、僕は見つかってはいけない人に見つかっちゃったみたい。僕が泣いた日あったでしょう。あの日、ピアノの調律に来た人、誰かに頼まれて僕とおかあさんを探しに来た人だったんだ。僕は会ったとたん、あの人が「こいつだ」って言った声が聞こえて、逃げ出したんだけど、おかあさんを放っておけないもの。おかあさんをちゃんと守れるのは僕しかいないんだ。
 え、おとうさん? おとうさんは僕には会いたくないみたい。やっぱり、きもち悪いのかな。赤ちゃんの頃、だっこしてくれた写真は見たことがあるんだけどね。僕がヘンだって気がついてから、僕のこと可愛くなくなっちゃったんじゃないかな。でも、僕とおかあさんのこと、ちゃんと見てくれているんだって。
 明日の朝、引っ越すんだよ。おかあさんたら、ようやく危ないことに気がついて、おとうさんに相談したんだ。それでまた、隠れ家を見つけてもらったんだって。すごく遠いんだ。ユリちゃんにもう会えないかもしれない。
 だけど、泣かないでね。大きくなったら、きっとユリちゃんを探しに行くから。僕のこのヘンなところは、もしかしたら大きくなると消えちゃうかもしれないって、おかあさん言ってた。そうしたら、ユリちゃん、もっと僕のこと好きになってくれる? だって、ユリちゃんもこのごろちょっと、心が見られるなんてイヤだなって思ってたでしょう? ごめんね、ユリちゃん。
 いつか、大人になったら、きっと会おうね。

 

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