「良かった。わたし、マモルくんはもしかしたら、本当はいなかったんじゃないかなんて、さっき思っていたんですよ」
紅茶をいただきながら、わたしは言った。
「あの子、不思議なところがあったからね」
小夜子さんが微笑む。
「あの……今でもそうなんですか?」
「……いいえ。小さいころだけよ」
小さな失望。そんな自分が意外だった。マモルくんは最後の日、普通になればわたしがもっとマモルくんを好きになるって言ったけど、そんなことはない。あのままのマモルくんがいい。
「ちょっとね、いろいろ苦労したのよ、昔は。わたしも衛もね。でももう、昔のこと」
小夜子さんがそう言ったので、わたしはすぐに反省した。あのチカラのせいで、マモルくんはたくさんたくさん、辛い思いをしてきたのだ。あのチカラ、なくなって良かったじゃない。
「ユリちゃん、結婚は?」
「えへ。もうすぐ離婚かも」
「え」
何故だろう。こんなに簡単に人に話せるなんて思っていなかったが、わたしは小夜子さんになら聞いてもらいたいと思ったのだった。
「理由は、うまく言えないんですけど、きっと子どもすぎるんです、わたしが。与えられることばかり期待して、彼が傷ついていたり怒っていたりすると、どうしていいかわからなくなっちゃうんです。なぐさめたくてもそれがうまくできない。困っているだけ。そのうちに、こんなはずじゃなかった、だなんて悲しくなってきて。逆にわたしが悩んでいるときに、彼が気づいてくれなかったり、彼自身に余裕がないことも多いんです。あんまりわたしのこと、好きじゃないのかな、なんて思って、わたし、すごく不機嫌になっちゃう。ここ数年、ずっとそんな感じで。昨夜ついに別れ話が出ちゃった」
思いがけず涙が出てしまい、小夜子さんを困らせてしまったことを悔やんだ。
「ユリちゃん、二階へ行こうか」
顔を上げたわたしに、小夜子さんはにっこり笑って立ち上がり、おいでおいでをした。
マモルくんの部屋も、生成りの布がたくさん家具に掛けられていた。でも、時々空気を入れ替えてもらっているのだろう、部屋は眠りの底にあったようには見えなかった。やはり、懐かしい。
小夜子さんはまっすぐ出窓に向かい、扉をあけ放った。あの日のような、海が見えた。初めてこの家に呼んでもらった日。小夜子さんと、マモルくんと、三人で並んで海を見た日。
「水平線を見ているとね。今、自分は旅の途中なんだって思えるの。自分の意思で出た旅よ。それでね、これは旅なんだからいつでも帰れるって思うのよね。いつでも帰れるから、もう少し、旅を続けようかなって」
小夜子さんの横顔は美しかった。西に傾きかけた太陽の光が、彼女の彫りの深い横顔を輝かせている。まだ少女ともいえる年齢で、妻のいる大人の男性と恋をして、男の子を産み、なかば隠すかのように育て、守ってきた人。耐えがたい気持ちになったことは、一度や二度ではないだろう。いつでも帰れる場所とは、もしかしたら「死」のことを言っているのかもしれない。
「岬さんのご一家がお隣に越してこなかったら、わたし、どうなっていたかしら」
「わたしたちが?」
「特に、あなたのおかあさま。優しくしていただいたわ。とても」
「そうだったんですか」
「あなたもエリちゃんも、可愛くていいお嬢さんだった」
「小夜子さんもマモルくんも、優しかったです」
「わたし、あのころはまだ、毎日心細くって泣いていたのよ。衛を育てながら、衛に守ってもらっていたな。アップルパイ、あなたのおかあさまにお礼を言ったときね、何て言われたと思う?」
「さぁ?」
「おかあさまったらね。小夜子さん、わたしの娘になる?って」
一瞬黙った後、わたしはえぇっと大声を出し笑ってしまった。
「そんなこと言える人、初めて知ったわ。旅はつらいことも多いけど、楽しいこともあるものだって思ったわよ」
小夜子さんも笑っている。少し涙を浮かべながら。なんともはや、子どもの知らないところで、親たちにもドラマチックな交流があったのだ。
「一度だけ、手紙を出したの。差出しの住所を書かずに。あなたのおかあさまに、とても失礼なことをしちゃった。良かったら今の住所を教えてくれる? 今度はちゃんとわたしの住所も書くから。それから……あなたの住所や電話番号も」
「いいですけど、わたしのはすぐに変わるかもしれませんよ」
「……」
小夜子さんはわたしをじっとみつめた。深い深い、瞳の色。
「ユリちゃんは、多分、別れないわよ」