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駅へと歩きながら、わたしはもう、夫の優しい瞳が恋しくなっていた。会いたくて会いたくて、今日何度目かの涙をこぼしそうになり、慌てた。胸を満たしているたくさんの思いまでこぼさないようにと、大切に、自分の本当の心を大切にと、わたしは注意深く一歩一歩、進んだ。
そして、駅前に赤い電話ボックスを見つけた。バッグから携帯電話を出すのは何故かためらわれたが、公衆電話なら大丈夫な気がした。今のきもちのまま、素直に話せそうだ。初めて出会ったころのような、胸の高鳴りを感じながら、陽介の携帯電話の番号を押す。
怒っているだろうか。呆れているだろうか。ふいに不安になる。
「もしもし。ユリか?」
「うん」
「なんで消えちゃうんだよ」
「ごめんなさい」
「撤回したかったのに」
「え?」
「昨夜、もうだめかもしれないって言ったこと」
「陽介」
「まいったな。昨日、木ノ内さんに言われたとおりになっちゃったよ」
「木ノ内さんって、陽介の上司の、あの綺麗な女性課長?」
思いがけない人の名前を耳にして少し面くらいながらも、以前紹介され、その後ときどき画廊に来てくれる夫の直属の上司の顔を、わたしは思い浮かべた。仕事ができて、人望もあって、美しくて、品が良くて、非のうちどころがない彼女に、最初は軽い反発も覚えたが、実はずぅっと憧れている。あんな人が職場にいては、たまらないな。比べられたらたまらないな。彼女の同僚や部下の妻たちは、みんなそう思っていることだろう。けれど、つまらないジェラシーだ。それはともかく、何故今、彼女の名前が夫の口から出るのか?
「木ノ内課長がなんて?」
「仕事でちょっとトラブルがあってね。昨日彼女に報告したときについ自己弁護したんだ。そうしたらあなたらしくないって。最近の俺は余裕がないうえに甘えているんだってさ。仕事のミスよりもそっちの方が心配だって言われたよ。正直、そのときは腹が立ったな」
「……」
「でも、本当にそうだな、自分はガキだなって思い始めて。謝ったんだ。なのに、追い討ちかけるんだぜ、木ノ内さん」
「どういうこと?」
「昔のあなたが好きで結婚したユリさんだって、今のあなたには歯痒い思いをしていると思うわ、だって」
「本当に?」
「わたしなら仕事から疲れて帰って、そんな根性の男の世話なんてできないわよ。あなた、ユリさんの仕事の邪魔をしてるとは思わないの、だって。大きなお世話だって思ったさ。事実だと思うから余計に腹も立って、昨日はめちゃくちゃ不機嫌だった」
「どおりで」
「……ごめんな。大人気ないよな。やっぱり木ノ内さんの言うとおりだったよ。ユリに甘えてた」
わたしこそ、と言いたかったけど、わたしは胸がつまって言葉が出てこなかった。しばらく黙っていると、夫が訊いた。
「帰ってくるんだよな?」
「いい?」
「迎えに行こうか?」
「電車に乗るだけだから、大丈夫」
「でも、もう来ちゃった」
「え?」