密航少年Kayの
亜米利加見聞記
―1900年代初頭の北米大陸
Vol.3
中川吉蔵/光子
第三章
カナダからアメリカへ
●初めての就職と解雇
バンクーバーで、僕は初めて就職した。製材工場の運搬係である。
この会社は、太平洋にそそぐヘステング・ミール河という大きな河のほとりにあった。河の両岸はそそり立つ杉の林で、二抱えもある高さ五十メートル近い巨木が密生していて、圧倒されるばかりだった。
上流で伐採した大木は、長さ数メートルの丸太にして、簡単な筏に組んで工場内の水路に引き入れ、筏を解く。この丸太を貨車に積んで製材機のところへ運搬するのが僕の仕事である。
僕は今でも背が低いが、当時はもっと低かったし、まだ筋肉もついていなかったから、大男の外人労働者にまじって二抱えもある丸太を貨車に積み込むのは相当無茶な話だった。しかしそこは若気の至りと持ち前の負けん気で、弱音も吐かず一生懸命働いた。
ある日の午後、仕事の世話をしてくれた先輩に連れられて、事務所に行った。彼は先方の英国人としばらく話していたが、そのうち「帰ろう」と言って事務所を出た。僕には何のことがわからない。
「もう仕事がないから、明日からは来なくていい。『ゴー・ホーム』つまり、君はクビだ。」
初めての仕事と思って、無理な力仕事を一生懸命働いたのに、一方的にクビにするとは、と腹も立ったし、努力が認められなかったショックも大きかった。しかも身寄りもない外国でのことだ。
その日は夕食も食べずベッドの中で両親の写真を幾時間もながめて過ごした。目的もなしに、勝手に日本を飛び出してきた自分が悪かったのだ、と今さらのように思った。でももう後へは引けない。
しかし気を取りなおして考えれば、僕がこの会社で一人前に働こうとしたこと自体無理な話だったのだ。言葉がもう少し解れば、もしかしたら身体に合った軽い仕事になっていたかもしれないが、向こうの言うことにあいづちを打っているうちに、屈強の大男のする力仕事になってしまった。身体の小さな僕が彼らと同じように働けるはずもない。これではクビになるのも道理だ。
僕はこの時初めて、己の力を知ることがいかに大事であるかを思い知らされた。そして同時に知らないことを「できない」「知らない」と率直に言うことが肝心だと心に刻み込んだ。
●昼は仕事、夜は学校
さていつまでも落ち込んではいられない。僕は同じ下宿に住む人たちの世話で、昼は仕事をしながら夜はナイトスクールに通うことになった。
仕事は、話が来れば何でもやった。食堂の皿洗い、列車ボーイ、大工……。大工は九ヶ月ほどやった。すぐ辞めてしまったのに印象に残っているのは列車ボーイの仕事だ。バンクーバー始発で三昼夜かけて大西洋岸のオタワまでゆく汽車に乗り込み、ボーイをするのである。八千キロも離れた大西洋岸と、太平洋岸では人情がまるで違い、珍しい風物にも接することができて愉快だった。
しかしこの列車ボーイを、僕は二往復で辞めた。
黒人コック達の作る食堂のメニューは最高の料理、最高の値段なのだが、彼らは日本人に好意を持っていて、食堂が開くたびに僕を呼び、最高の料理を作ってくれる。ただし勘定はきちんととられる。僕の給料はほとんど食堂に吸い上げられ、小遣いにも不自由するほどだ。これでは何のために勤めているのかわからなかったからだ。
バンクーバー暮らしも二年が過ぎた頃、同郷出身の国領君という友人が、ウサギ狩りに誘ってくれた。この日ウサギはさっぱりだったが、国領君は盛大に僕をもてなしてくれ、同郷のよしみで話も大いにはずんだ。その中で出てきた国領君の一言が、僕の心を強く揺さぶった。
「僕は米国行きのパスポートを持っているが、今は忙しくて行っていられないんだ。」
そう聞かされて旅券を穴の空くほど見つめているうちに、僕はもうどうしてもアメリカへ行きたくてたまらなくなってしまった。
「この旅券をしばらく貸してくれ。必ず返すよ。米国へ着いたらすぐ郵便で送る。」
強引に頼み込んで、旅券と写真をひったくるように借りて、国領君が心変わりしないうちにと早々にバンクーバーへ引き返した。