密航少年Kayの
亜米利加見聞記
―1900年代初頭の北米大陸
Vol.7
中川吉蔵/光子
第七章
バークレーの大学生活
●女子学生倶楽部
ある日、佐藤氏から耳寄りの話を聞いた。
サンフランシスコの対岸に、バークレーという市がある。そこはカリフォルニア大学を中心にいくつかの学校があるスクールタウンで、酒屋も飲み屋も、酒に属するものは一切ない。酒が飲みたい場合は隣の町―といっても汽車で四十キロぐらいある―まで行くというほど、徹底している。このバークレーでは人種差別の感情がなく、日本人にはとても過ごしやすいところだという。話を聞くうち、バークレーに行きたい気持ちが無性に高まってきて、アラスカから帰って十日目ぐらいにバークレーに入った。
駅前の街路は落ち着いていて、思った以上に風格のある静かな町であった。街並みを眺めていると、「岩井旅館」と漢字で書いてある看板が目についた。上陸以来初めて見た日本の字の看板である。早速行ってみると、古色蒼然たる西洋人の住居をいくつにも小さく仕切って、間貸しをしているらしかった。
主人の言うには、「ここは食事付きではないが、少し先に日本めし屋があって、一食十五セントから二十セントで食べられるし、キッチンもあるから自炊もできる。貴君のような若い人たちが毎日たくさん遊びに来て、なかなか愉快に過ごせると思う」と。そのうちに三、四人の若い人が遊びに来て、主人が紹介してくれると、たちまち古くからの友人のように親しく話し相手になってくれる。シスコとはまるで違う。これは楽しいところへやってきたものだとうれしくなった。
この岩井旅館に泊まっている人が、カリフォルニア大学の女子倶楽部を紹介してくれて、そこに勤めることになった。
学生倶楽部というのは、学生の父兄が費用を出して運営している学生寮のことだ。僕の勤める倶楽部には十四名の女子学生がいた。倶楽部の仕事はあまり忙しくはなかった。掃除と電話番が主で、給料は食事付き、住み込みで三十ドル。スクールボーイの二倍であった。
しかしこの年は四年に一度の閏年で、女子学生がパーティーを主催して男子寮の学生を招待する年にあたっていた。そのため女子学生主催のパーティーがなかなか多く、だんだん忙しくなってきた。
パーティーの時は倶楽部の広間を花で飾り、アイスクリームとブラックコーヒーを小さなコップで準備する。時にはサンドイッチを出すこともあるが、酒は出さない。男子学生は、皆イブニングコート、燕尾服、白い蝶ネクタイ姿で、燕尾服は屋外では見えないように着るから、薄いコートに白いマフラーをして来る。女子学生はもちろん皆イブニングガウンを着る。僕もそういうときは黒ズボンに白のコート、黒の蝶ネクタイで、パーティーの世話をしながら時にはダンスの仲間に入る。
パーティーは十時半までには済んで、男子学生は皆帰る。その際、女子学生は玄関まで送るが外へは出ない。実に礼儀正しい。倶楽部には監督の老婦人がいて、学生の日常生活について細かい注意を与えている。その指導の賜物であろうかと思った。
この倶楽部の監督は、ミス・ハントといい、六十歳ばかりの上品な老婦人であった。食事の時はいつも上座について、その人が食器を取るまでは誰も手を出さない。食事が終わっても、その婦人が席を立つまでは誰も席を離れない。食事中に話に花が咲いて少し騒がしいときは、「ガールズ」と軽くたしなめると、皆静かになる。しかしそれで萎縮したり目を盗んだりすることはなく、誰もが実に伸び伸びと明るい。作法の先生を自分達で雇っているとでもいう感じであろうか。
六月の二十日頃から学校は夏休みになり、僕も三ヶ月間の休みに入った。その間別の学生倶楽部にいる友人の久保田君が、余っているベッドがあるからこっちに来ないか、というので行ってみた。久保田君が女子学生倶楽部の感想を聞くので、
「仕事は大したこともないが、何分女性ばかりだから、何か習おうと思っても僕の興味のあることがなくてね」
「君は機械工学を勉強したいんだったね。それじゃ女子学生じゃ無理だ。男子の倶楽部はどうだ。一人頼まれているんだ」
その倶楽部はD・U倶楽部といい、この大学で一番よい倶楽部で、有名人の子弟ばかり入っている。元の大統領ウィルソンもそのメンバーの一人であったという。そこで学期が始まったらその男子学生倶楽部に移ることに決めた。