私のクラス担任のヨランタは、いろんな意味でとても魅力的な人だった。年のころは私とほとんど変わらないぐらいだと思う。はじめはゆっくりポーランド語に慣らし、少しずつスピードを上げていく。単語も毎日新しいものを増やしていき、教えた単語と文法を巧みに使って、次のことを説明する。どの単語を教えたかは、すべて頭の中に記録されており、習った単語の意味を尋ねると、「これは、もうやった単語です」と言われる。毎日、新しく出てくる10〜20の単語を覚えていかない限り、次に進むこともできないし、その日の授業は無意味なものになる。
高校を出たばかりの、若いクラスメイトに混じって、私も錆びきった記憶力に、やすりをかけた。宿題も、膨大で、すべてやり終えると、次の日になっていた、ということもしょっちゅうだった。
こんなに大変だったので、もちろん脱落者も多かった。最初から最後まで同じクラスで修了したのは、ほんの一握りだった。上のクラスから降りてきた者、片親がポーランド人で、最初からポーランド語はある程度話せた者、前の年に落第し、私たちのクラスに加わった者、などが途中で加わったので、クラスの人数そのものは常に12、3人だったが、その内、最初からいたのは3、4人だけだった。
毎日、寮と学校の往復だけで、ちょっと町をブラリ、ということも滅多になかった。ウッチが、特に見所のない街だということに感謝した。もし、文化の宝庫、クラクフなどに住んでいたとしたら、ただひたすら勉強に明け暮れるなんて、もったいなくて、できなかったかもしれない。
日本で「勉強」というと、なんとなく「努力」、「忍耐」などということばが思い浮かび、なにか苦しいもの、でもやり遂げなくてはならないもの、というイメージを持つのは、私だけだろうか。大学受験にしろ、語学の習得にしろ、努力し、苦しみを乗り越えて、がんばった者のみが勝ち得る、という風に教えられてきたように思う。
そして、私はそれが非常に苦手だった。寄り道しながら、興味のあることを楽しんで勉強するのは好きだ。が、AのときはB、CのときはD、というように、型に当てはめ、暗記し、しかも、カリキュラムに沿って、いついつまでにはここまで終わらせる、というやり方は、どうしても肌に合わなかった。興味のあることには、長く時間を取り、興味のないこと、またはすぐに理解できることは、さっさと切り上げる、というやり方だったので、日本の教育システムには、完全に外れてしまい、うまくいかなかった。それで、大学受験も失敗し、英語も、高校までの教育では習得できなかった。
だが、このバベルの塔での勉強は、その辺が違っていた。少しポーランド語で自分の意見が言えるようになったら、様々なテーマについて、議論し合った。だんだん、ことばよりも内容の方に気を取られ、文法がめちゃくちゃになっていくのを、そばでヨランタが訂正する。でも、そんなのお構いなしで、自分の考えを主張する。それぞれ違った文化で育った者のあつまりだったので、考え方も多種多様で、それは面白かった。
試験の前も、人に隠れて勉強したり、クラスメイトに変なライバル意識を燃やしたり、ということはなかった。お互い自分が理解している部分を教えあい、みんなで疑問点を解決する。テストの前には、たいてい寮の誰かの部屋に行って、一緒に勉強した。
要はポーランド語を理解し、1年後に大学の授業が受けられるくらいのレベルまで持っていくことが大切なのだ。
授業そのものはかなりきつかったが、「苦しみを耐えて」といった印象はなかった。むしろ、ポーランド語が少しずつできるようになり、いろんなテーマについて、話ができるのがとても面白く、これが言いたいけど、どう言えばいいのだろう、というところから、語彙も文法も広がっていった。みんなの興味を奮い立たせ、議論に没頭させ、なおかつ、文法的な間違いも訂正し、語彙も増やすのがヨランタの役目だった。そして、彼女はその才能に長けていた。
ウッチに来て9ヵ月後、私は辞書を引きながらであれば、ポーランド語の新聞も読め、ポーランド人と普通に会話し、自分の考えも、ポーランド語で言えるようになっていた。9ヶ月前の私にとっては奇跡的なことが現実となっていたのだ。
興味があれば、人は多くのことができる。そして、それは時に、奇跡を呼び起こすことだってある。勉強することに、忍耐も、苦しみも必要ない。むしろ、必要なのは、知識を分け合う寛容さと、もっと知りたい、という好奇心をもつことなのだと思う。このことを立証してくれたのが、バベルの塔での9ヶ月だった。